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ダイバーシティーとフェティッシュとコーンフレーク

フェティシズム
Fetishism

フランス語の「フェティッシュ(物神、呪物) 」から生じた言葉であり、ある対象、あるいはその断片を偏愛する態度のこと。18世紀に初めて「フェティシズム」という言葉を用いたシャルル・ド・ブロスによれば、この言葉は15世紀後半にアフリカを訪れたヨーロッパ人が、そこで崇拝の対象とされていた歯、木片、貝殻などを指すために用いたポルトガル語の「フェイティソ(魔術、呪符)」に由来する。したがって「フェティシズム」とは第一に宗教学や人類学の領域における「物神崇拝」という意味を有する。その後、ド・ブロスの著作を読んだマルクスは、商品によって循環する資本主義社会にこの「物神崇拝」的性格を見出し、商品経済をめぐる独自の「フェティッシュ」論を展開した。さらにその後、このフェティッシュおよびフェティシズムという言葉は、フロイトに代表される精神分析の議論においてさらに深く展開されることになる。19世紀後半に生じたこのフェティシズムの個人化ないし性科学化にともなって、「倒錯的な性的嗜好」としての「フェティシズム」という用語が新たに誕生する。日本語では「フェチ」という略語によって広く知られるように、今日この言葉は、かつての集団的ないし宗教的な含意からは離れ、一般に特殊な細部や部分対象への偏愛を指す概念として理解されている。

日本人の考える「フェチ」という言葉とはちょっと遠い意味だけど、断片を偏愛するっていう点ではその通りかもしれない。

私はよく一人旅に出かけることが多いのだが、旅先で独り者というのは基本的にマイノリティである。ロサンゼルスの道端でマリファナをキメるティーンエイジャーから見たら怪しいアジアンのおっさんだし、大阪のディープなバングラデッシュレストランの店員と客から見たらただの観光客である。

そんな「アウェイな空気」が大好きで、必然的に興味関心が多様性に富んだ人、作品、文化に向いていく。(最近のNetflixのお気に入りはクィアアイだ)

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今までに2回アフリカのルワンダという国にコーヒー産地の見学と買い付けに行ったことがある。ルワンダと言えば虐殺、くらいのネガティブイメージの付き纏う国だが現在アフリカ内でも比類無いくらいの経済的発展を遂げており、首都のキガリなんかは四日市なんかよりも数倍都市化が進んでいる。

その一方でコーヒーが育てられているのは必然的に山奥の田舎になるので、子供達もはだしで駆けずり回り、生活もよくイメージする「恵まれない国の子供達」といった様相を呈している。

彼ら達の肌の色、目の輝き、喋る言葉、食べている物、身につけている物、文化や習慣など全てが自分の考えている世界や常識というものからズレにズレまくっていて、いやむしろズレているのはこちらである。何せこの村には初めて日本人が来たとの事なので、もう見せ物パンダの気分である。

そう、僕個人のフェティッシュとして「異質な物」がたまらなく好きなのだ。それを多様性と言ってしまえばソーシャルグッドな感じもするが、そういう道徳心では無く、耳が聞こえない人が聞こえているものに興味があり、目が見えない人が見ている物が知りたくて、自分の常識をぶっ壊してくれるような人間にしか興味が無いだけなのである。

これからのダイバーシティを考える時に、各人のフェティッシュの問題を考えるという事は、なんとなーくとっても重要な気がしてダラダラと書いてしまった。

あまり日本人で大っぴらに性に関して話す事はタブーとされている空気があるが、もっと自分のアイデンティティの根幹であるフェティッシュに関して語る場所が必要だと思う。


因みにコーンフレークは元々性欲を抑える為にケロッグ博士が考え出した物だそうです。


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