仕事を少し休んで分かったのは、自己卑下の有害性
予兆はあった。どうやったら人に迷惑をかけずに自分がいなくなれるのだろうか、という考えがずっと頭の中にあり、仕事をしている間は忘れられたが、仕事を終えた瞬間に、待ってましたとばかりにその考えが襲いかかってくる。気晴らしにと近くのコンビニまで歩いていくのも無駄。歩けば歩くほど、頭の中の考えは具体的にマイナスになっていき、帰宅する頃には何度も繰り返し出してきた答えにいきついた。
それで、またある日、心が折れてしまった。2021年のちょうどこれぐらいの時期に1度明確に心を折っているので、2回目だ。心って折れても外からは見えないので、形容し難いのだけど、自分が広大な焼け野原に立っているような気持ちになる。多分あれは全てを諦めたから清々しい気持ちになるのだと思う。「2年に1度心を折るとか、オリンピックよりスパン早いな」「前のこと学んでないのかよ、自己管理できてない」とか頭の中で声がしてきて、呆然とした。何も分からなくなってしまった。
とにかく迷惑を最小限にと、仕事を休む可能性があるという連絡をして、でももう戻れないかもなぁと思っていた。前回、本当に限界を見たので、これは2度目が来たら自分が保たないかもしれないと思っていたのに、2度目が来てしまった。いよいよもうこれで終わりかな、と思いながら、自分の中から次から次に出てくる希死念慮に見舞われていた。
ただ前回と違うのは、自分の具合が悪いことを人に言えるようになったこと。私のメンタルのややこしさを知っている友人に、死にたい、ということを吐露すると、「友達が死ぬのは普通にきついからやめろ」と言われた。世間が「あいつ、いつも死にたいとか言いながら死なないよな、嘘なんじゃないか」と言ってるように思う、と伝えたら、「自分の声も世間の声の1つなのに何故それは無視してありもしない世間の声を気にするのか」と言われた。
翌朝、病院に電話して主治医に相談したら、とにかく今は休めと仕事にドクターストップがかかった。そのことを、また別の友人たちに話したら「自分たちがもっと強く休めと言っていればよかった」「仕事をしているところを見つけたら取り締まるから」と言われた。「自分たちの言葉では、仕事を休むきっかけにはならないのか」とも言われた。
連日の友人たちの言葉で、自分がいかにこんなにも近くで私を見放さないでいてくれる人たちの気持ちを無下にしていたのかを思い知った。私なんかの心配してくれる人はいない、という「私なんか」の自己肯定感の低さが、結果的に、大切にしたい人たちの優しさを無下にするのだったら、そんな自己肯定感の低さは有害だからさっさと捨てちまえと思った。
「私なんか」とか言ってないで、死なないでほしい、休んでほしい、と言ってくれる人たちの気持ちをシンプルに100受け取って、しっかり休んで死ぬのを回避するのが、私にできる彼らへの感謝なんじゃないか。
ということで、本当にしっかり仕事を休んだ。前回は仕事を全部止めるのが怖くてちまちまやっていたら回復に半年かかったので、一時的にしっかり全部止めた。そのことで仕事相手に迷惑をかけてしまっているのだろうし、私なんかが存在して関わってしまったから、みたいな気持ちもかなり強くあるけれど、多分死ぬよりは死なないほうがまだいいんじゃないか、みたいな気持ちも一応残っている。
昔、QJWebでハイバイの岩井さんがやっていた「あつまれ!1億総ひきこもりの森!」という連載企画に、初めて心が折れた時にメールを送っていたのだが、それをまた読み直していた。
明日のカウンセリングで、これからどうやって仕事と生活をしていくのがいいのかを相談する。頭の中の仮想敵はまだ全然うるさいんだけど、私のことを友達だと言ってくれる人たちがかけてくれる言葉を無下にしない、というのが1つ拠り所になったので、これを掴んで、日常に戻っていきたい。