味の保険

私は冒険をしない。
服の系統や視聴するアニメや読む本は決まったものばかり。食事も基本的に気に入った系統のものを選ぶ。スパゲッティならミートソース、ラーメンなら醤油、ハンバーグならデミグラス。基礎になる味は決まっている。できれば、お店も気に入った、同じ場所に行きたい。私が求めるそれが正しくおいしいことを知っているからあまり冒険はしたくないのだ。死ぬまでにできる食事の回数は限りがある。だから、できる限り痛手は負いたくない。負ったとしても最小限にしたい。だから味の冒険をするとなると必ず保険が必要になってくる。味の保険だ。

味の保険は、かけたからには必ず食べきらないといけない。保険だけなら、一口か、ある程度満足するまだ食べて残したらいいじゃないと言われたことがあるが、残すのはあり得ない話だ。作ってくれた人に申し訳ない気持ちはないのだろうか。食事を残す文化がない私にとっては、あまりにも理解ができない言葉だった。
幼い時に私が通っていた宗教系幼稚園では、「ご飯を残すと神様が怒るんだよ。神様が罰として地獄につれていっちゃう。裁かれる前に今まで残したものを全部詰め込まれるんだよ。吐いたらやり直しだよ」と日常的に園児を脅していた。私はそれがひどくひどくトラウマになっており、私はご飯を残すことができなくなった。大きくなった今でも、特になにかを信仰しているわけでもなく、『地獄』という概念を信じているわけでもない。ただ、なんとなく恐ろしい。自分の目の前の皿が空になっていないと漠然とした不安に襲われる。ほんとうにじごくがあったらどうしよう。幼い頃の思想がこびりついていて、気づけば皿を空っぽにしている。そういうことを繰り返していたらぶくぶくと太った。やはり神はいないのだろう。食事を残すなという教えに従っているだけなのにこんなに太らせやがったので。

この世には、さまざまな味の保険のかけかたがあるとされている。私としては味の保険のかけ方はひとつしかなくて、それ以外は味の保険になり得ない。
うどんと丼もの、パスタとピザ、炭水化物同士で味の保険をかける人、デザートで口直しをすることを保険と認識している人がいる。繰り返すが、私から言わせればそれは味の保険ではない。
味の保険は、同種であるから保険になりえるのだ。ラーメンならラーメン、ピザならピザで。種類を変えたらそれはただ食べたいだけの食いしん坊だと、私は思っている。気に食わない味を食べてしまったという記憶を保険で上書きする必要があるのに、それが保険の意味であるのに、別種のものを食べてしまったらそれはできない。味は別々に記憶されるのだから。

私はマクドナルドのてりやきバーガーが嫌いだ。食べてすぐさま嘔気に襲われたこともあるぐらい嫌いだ。マクドナルドのてりやきバーガーを初めて食べたときも、もちろん味の保険をかけた。一緒に180円の(当時はもう少し安かったと思う)チーズバーガーを注文した。
まずはてりやきバーガー。一口目で味に拒否反応を起こした。自分を酷く恨み、世界を恨む。なぜ、おいしいかもしれないと思ったのか。なぜ、冒険をしようと思ったのか。なぜ、いつものダブルチーズバーガーやビッグマックにしなかったのか。こんな味で自分の貴重な食事の機会が奪われるのか。こんなまずいものを企業として出していいのか。この世でテリヤキバーガーというものを生み出した人間が、それを喜んで食べている人間が憎い。全てが憎い。口に味が広がっているうちは、そのような思想から抜け出せない。
食べ終わってすぐにチーズバーガーを食べた。チーズバーガーを食べているうちに、てりやきバーガーの味は忘れていく。恨み、悲しみ、憎しみ……マイナスの感情と味が全てが100円台のハンバーガー特有の、異様にパサパサの肉に吸い取られていく。最後に残るのは「失敗したな」という記憶と、チーズバーガーの味だ。
失敗したという悲しい記憶は残るが、口の中にてりやきバーガーの味が残っていて、いつまでもまずくて悲しくて、世界を恨み続けることはない。てりやきバーガーはまずかったけど、ハンバーガーはやっぱりおいしいなというプラスの気持ちになることすらできる。このように作用するため、メンタルの保持という意味で味の保険は大変偉大である。
もしもこれが、ポテトやナゲットで味の保険をかけようとしたらどうなるだろうか。ハンバーガーはまずかったけど、ポテトやナゲットはおいしかったなという記憶になる。憎しみ、悲しみ、怒り───味に裏切られたという感情が私を襲う。苦しみを紛らわせる方法は、そうなってしまえば、もう、ない。二度とその店には寄りつかなくなる。

味の保険のいいところは、冒険したものがおいしかった場合はノーダメージということだ。好きなものをたくさん食べれて、幸せになるだけだ。お風呂に入るために服を脱いだとき、少しの後悔に襲われ腹の肉をふるわせるぐらいだろう。でも食べたものはもう仕方ない。もう栄養になっている。明日の自分に頑張ってもらうしかないのだ。

味の保険をかけたことがないという人種もいるにはいるらしい。私の周りにも1人、存在を確認した。
私は味の保険をかけないことはあまりないので、なぜ味の保険をかけないのか非常に不思議でたまらなかった。どうして味の保険をかけないのか聞くと、「別にいらないから」と答えた。彼は自信家で、思い切りが良く、自分の選択に迷いがない。「まずかったらまずかったでいいやん」とその人は続けた。あり得ない。その人からすれば私の味の保険という概念があり得ないらしい。
まずかったら、悲しくならないのだろうか。私は悲しくなるし、恨む。自分や世界や企業、他者を恨むと前述したが、1番恨むのはやはり自分だ。
彼は自分の選択に自信がある。自信があるんだねと言ったら「失敗してもおもろいからいいやん」と答えていた。眩しかった。私は自己肯定感が低くて、自分の選択に自信がなくて、陰鬱で、自分を十分に愛せていない。自分を全肯定で愛せるのは自分だけと理解しつつ、自分を1番嫌っているのは自分だ。それを理解している。だから味の保険をかけないといけないのだ。自分にこれ以上失望しないために。自分をこれ以上嫌いにならないために。
味の保険は私のメンタルのセーフティネットになっている。自己肯定感が低い人間は、たった1つの失敗を棺まで引きずる。死に際に、「てりやきバーガーは、まずかったなあ」などとは言いたくない。これからも味の保険をかけ続けるのだろう。いつか、味の保険をかけなくてもいい日を夢見ながら。

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