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父にほめられたこと。

私には2歳上の姉がいる。
姉は美術のセンスがあり、幼少の頃からその才能を発揮していた。
母は美大の出身で、桑澤デザイン研究所の出身であり、
東大医学部で解剖のデッサンをしていたという妙な経歴がある。

そんな母は姉の才能を誇りに思い、姉をより高等な学校へ通わせるべく、
特進クラスのあるような学習塾へ姉を通わせ、中学受験をさせることに
尽力していた。

一方の父は、中高一貫の私立男子校を卒業ののち、東京農業大学へ進学する。学部はわからないが、農大といえば「大根踊り」が有名なので、
過去に「やってみて」とせがんだことがある。しかし「できん」と一言で返されたので、おそらく応援団ではなかったのだろう。
理数系の父はその後「24時間働けますか」で有名な薬品メーカーの研究員として定年まで働いていた。父は忙しく出張などで家にいることがあまりなかった。しかし出張で出かけると、必ずその土地のキーホルダーをお土産に買ってきてくれた。姉は大して喜ばなかったが、私はとても嬉しく、枕元にお土産が置いてあることが楽しみでしかたなかった。

さて、母は姉を受験させるために姉と二人で行動をすることが多かったので、私は必然と父と一緒にいる時間が多かった。休みの日、母たちは塾へ通うため出かけてしまうと、父は私を連れ出し自転車を教えてくれたり、多摩川グランドに巨人軍の練習を見に連れていってくれたりした。そんな父のことが私は大好きだった。

毎晩早くても23時ごろ帰宅をしていた父。時には2時3時に帰宅をすることもめずらしくなかった。しかし、小5の春に母が亡くなって以来、父は19時〜20時には帰宅をするようになった。出張もほとんどなくなった。
母親がいなくなってしまった私たち姉妹のために父が「娘たちのそばにいたい」と会社へ申し出たのだと後から知った。

母が亡くなり、姉は受験前に母の具合が悪くなってしまったこともあり、受験せずに公立の中学へ進学した。それから2年。私は小学校を卒業し、姉と同じ中学校へ入学した。

親子3人の生活にも慣れたころ、美術の授業で課題があった。
その課題は、石膏で手を作ることだった。
その形はどんな形でもよく、手のひらでもいいし、じゃんけんのちょきの形でも構わない。考えた私はこんな感じにした。

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このデザインは当時の姉のソレと同じだ。
美術センスが抜群の姉は、この課題も当然高評価だった。だから妹である私は、そのことが真っ先に思い浮かび、大っぴらに「盗作」をしようとしたのだ。しかし、この石膏の課題は思ったよりずっと難しく、美術センスに欠ける私に姉のようなハイセンスの作品が仕上がるわけがなかった。
仕上がった「手」はそのまま学校で捨ててしまいたいような出来だったが、
しかたなく家へ持ち帰った。

作品を持ち帰った私のそのあとがいけなかった。
「手」を部屋の学習机の上に置きっぱなしにしてしまったのだ。
そんなことをしたら姉に見られてしまうというのに!
姉の部屋は私の部屋を増築(増床)して作ったもの。私の部屋を通らなければ、部屋へ入ることはできない。ということは、姉は自分の部屋へ入る時に、私の部屋の中を見るともなしに見ることができるのだ。
そこに「手」があった。そのときの姉はどう思ったんだろう。
悪魔のような姉のことだ。これは一言、いや二言三言バカにしてやろうではないか、と思ったに違いない。バカにしなければ気が済まないだろう。
姉はそういうオンナだ。

果たして事件は起きた。
まあ当然だ。
姉は私の作品である「手」を持って大笑いした。
そして大事にとっておいたのであろう、姉の作品の「手」と比べ始めた。
悔しいが、姉のそれと比べられたら勝てるわけがない。
しかし、バカにされて黙っているほど私もおとなしくない。
返せ返せと姉に飛びかかろうとする。
バカだから頭を使っての反論ができないのが悔しい。
大声でひたすら「返してよ〜!」と喚くしかできなかった。

そこへ父が帰ってきた。
父は真っ先に私の部屋へ来て言った.
「何やってるんだ!外まで声が聞こえるじゃないか!」
私たちのケンカは外まで聞こえてたらしいが、そんなことはどうでもいいのだ。「だってだって!」と私が情けなくも半べそかきながら父へ訴える。
「何があったんだ?」そういう父に姉が笑いながら言った。
「だって見てよ〜たまきのこれ!笑っちゃう!これに似せて作ったんだって!嘘でしょう〜」と。
これとは姉の作品の「手」のこと。確かに姉の言っているとおりなのだが、
悔しすぎる。

父は私の「手」を見ながら、姉の「手」と比べた。
そして姉の「手」を静かに姉に返した。
「確かにお前のは上手いけど、たまきだって一生懸命作ったんだから、そういうことを言っちゃダメだ!」と姉を一喝してくれた。
そして
「たまきのだって上手いじゃないか。

この足は!」

目を細めて言ってくれたところまでは覚えているが、
気がついたらベッドの中だった。
おそらく泣きながらベッドに入っていってそのまま寝てしまったのだろう。
翌朝私の「手」はピアノの上に飾られてあった。


7月20日は父の誕生日だ。
父は昭和6年生まれなので西暦1931年生まれ。実に91歳だ。
生きていれば。
残念なことに父は1993年に61歳の若さで亡くなっている。
なので、このエピソードを笑って話すことはできないのだが、
きっと父は「そうだったか?」ととぼけるだろう。
父はそういうところがあった。
父は私の一番の理解者であり、一番の応援者だった。
きっとそれは今でも変わらないだろう。
あちらの世界でもきっと言っているはずだ。

「そうだったか?」って。

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きたがわたまき
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