
心に染みるから落語なのではない。落語だから心に染みるのだ。「令和版 現代落語論」に導かれた先とは
”結論”
令和版 現代落語論は、読むと談笑師匠のホログラムが浮かび上がる。
ような気がするくらい師匠と落語が身近に感じる。
「令和版 現代版落語論」を読む前に立川談笑師匠の何かを観てほしい。
何かってなんだいって?なんでもいいので、師匠の話を聞いてほしい。
きょうの料理でもいいし、YouTubuでもいい。
ああ、こんな声でこんな話をするのか。とちょっとだけ知ってもらいたい。
そうすると、いきなりの”結論”の理由がわかる(はず)。
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私が落語に触れた過程はどうでもいいとは思うが、一応触れておく。
ちょっと前にnoteでの記事だ。
驚くほどにこの書籍について触れていないが、落語家の演技力について書いてあるので、もしよければ読んでください。もちろんスルーしても、いい。
もう、百聞は一見にしかず。という諺もあるんだから、読んでくれればそれでいい。けれど「論」なんて書いてあるもんだから「え?論?ロジカル?」なんて考えてしまう人がいないとも限らない。
しかし、ロジカルとフィジカル、どっちがどっちだかわからなくなってしまうような私が読んだのだから、そのハードルは低い、というか、ない。
安心して。
さて落語は大衆芸能であり、その歴史は古い。
落語の始まりは、室町時代末期から安土桃山時代にかけて、戦国大名のそばに仕え、話の相手をしたり、世情を伝えたりする「御伽衆(おとぎしゅう)」と呼ばれる人たちでした。
その中の一人、安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)という浄土宗の僧侶は、豊臣秀吉の前で滑稽なオチのつく「噺」を披露してたいへん喜ばれました
詳しく知らないまでも、歴史が古いことは大抵の人は知っている。
しかし、よく考えてみるとすごいことさ。
簡単に室町時代末期とか言ってるけど、400年以上も前のこと。
十五代もの将軍が支えた江戸幕府だってその歴史約260年。
それよりも長く受け継がれているこの落語。
れっきとした日本の伝統芸能なのだ。
だったら日本人たるもの、落語の一つや二つ知らなくてどうする。
と、鼻息荒くするようなことでもない。
着物を着て舞台に上がり、座布団に座って「熊さん、八つぁん」などと言っている。日曜日の昼間、公共放送から流れてくる。年配の人が楽しむもの。
そう、落語ってそんなイメージ。こんな声も聞こえてきそう。
落語ってよくわかんない。なんか退屈しそうだし。
いや、ちょっと待って。
そんなあなたに

まるで手招きをされ、吸い寄せられ、読んでいるのに聞いているかのように、スッと入っていく、この「令和版 現代版落語論」。
江戸時代から愛されてきた、その風合いを残し、伝統を引き継ぎ、
しかし現代人が聞いても違和感のない噺に改作する天才、立川談笑師匠ここにあり。

難しいことなんて何一つ書いていない。
談笑師匠の言葉で、落語というものを教えてくれる。
もう読んでいる人に話しかけているかのように。
われわれ落語家は目の前の客席にいるお客さんに合わせて、 細かくおしゃべりを調整しています。話題を変える、言葉遣いを変える、話すスピードや間合いを調整する。いわばその場限りのオーダーメイドです。 その上、 ひとりひとりのお客さんをひとつのまとまりとしてコントロールすることができるのです。まるでオーケストラの指揮者のように。
どうよ、これ。
確かめに寄席に行きたくなると思わないかい?
オーダーメイドの舞台なんてワクワクする以外どうしたらいいんだろうか。
劇団四季はできないよ、こういうこと。
さらにこの本のすごいところは
・できれば実際に舞台へ足を運んでほしい
・いや、そこはなんとか足を運んでほしい
という談笑師匠だが、
・改作落語、QRコードから視聴できちゃうよ
という技あり一本作品なのだ。
本書の帯にもあるが、この本は師匠である立川談志への愛が感じられる一冊でもある。これがまたいいんだな。
そしてもう一つ、談笑師匠の改作落語はグサっとくるような、まさに”傷つく”表現はない。師匠の落語には愛があるのだ。
落語は心のデトックス
立川談笑は私のビタミン剤
お後がよろしいようで。
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