涙雨
磯之丞という男がいた。
歌舞伎役者のような派手な名前だが、実際は小柄な無口な男で、婿入りをした奥さんの尻にしかれっぱなしの人生だった。
自分の特等席である一人掛けのソファにいつも座り、いつもガミガミと大きな声で小言を言う奥さんに、静かに頷いたり、寝たふりをして知らん振りをした。
孫を可愛がったり、小遣いを渡すことは一度もしなかった。
彼は若い時、靴職人としてたくさんの靴を作った。修理もたくさんした。物置にはその当時の道具が所狭しと並んでいて、孫の格好の遊び場だった。
戦争の時は、満州へ出征し、無線関係の仕事に携わった。
「列車の窓から見た新京の夜景は今も忘れる事ができない。」と一度だけ孫に話した。
還暦を過ぎたあとは、動物園の清掃員として働いた。
孫は、動物園に行くことを、動物に会える事と同時に、じいちゃんに会えると喜んだ。動物園にいる磯之丞は、いつも笑顔で竹の箒を持っていた。
奥さんの葬式の朝、雨が降っていた。
磯之丞は、おもむろに白いカーテンを開け、外を見ながら、
「涙雨だな。」と呟いた。
その瞬間を孫はひとり目撃した。
孫は子供ながらに、その光景を美しいと思った。
孫がじいちゃんから受け継いだものは、雨が降る度思い出す「涙雨」という美しい日本語だった。
僕は、雨の日に「涙雨」という日本語を思い出す。
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