Ind-ZIN(インドジン)ができるまで〜上編〜
いい加減「Ind-ZIN(インドジン)ができるまで」を完結に持っていかないとと思っている。
数日前にまとまりかけていた頭の中が、またいろんな出来事で蹴散らされていく。芯がない、そう言われてしまえばそれまでなのだけれど、一旦これからのことはこれからにする。これまでのこと、つまりつい今までのことをまとめておかなければならない。
前回、前々回、前前前回の記事と、いろんなアプローチで自分の気持ちや過去にアプローチをかけてみた。話しながら考える、書きながら探す。そんな自分の悪い癖が祟っているのは見え透いていて、なんとなくのところでいつも「では次回に」なんて詰まるところを先送りにしてきてしまった訳だ。
人はみんな長い文章や、誰かわからん奴の思い出話に割く時間は持ち合わせてはいないと思う。だから一旦乱暴かもしれないけど「詰まるところ」を今立っているの足元に打ち付けてみる。
「Ind-ZIN(インドジン)を立ち上げたのは、生きている実感を感じたいからだった」
恥ずかしいし、できればスカして外には出したくなかった気持ちだ。
もっときっと色々な言葉があるはず。でも今の自分はこれぐらいの表現しか持ち合わせていない。
「生きている実感」なんて結構耳にするフレーズ。誰にも何も言われていないけれど、色んな突っ込みが頭の中に駆け巡る。でもできるだけ伝わるように、できるだけ退屈しないようにここに書いていこうと思うので、時間が許せばもう少しだけこの記事に留まっていてもらえたら嬉しい。
「西域のインディーズシーンをディグるWEBマガジン」
ここまで書いたことを簡単に整理すると、自分の生まれた山梨県のほぼ最西端に位置する南アルプス市上市之瀬という地域は山奥の限界集落だった。田舎であること、情報弱者であったこと、コンプレックスがあったこと、そして書いてこなかったけれど、実はある程度の年齢からそれが誇りで自分の中のアイデンティティになっていたということ。それらがたくさんの思い出や雄大な山岳、春に咲く桃の花や風に波打つ田園の風景と共に詰まっている。そんな愛すべき故郷。
コンプレックスという点においては、中学で始めた野球はうだつが上がらず、高校卒業までの膨大な時間を成績や充実感とは対極のマッチョな根性で乗り切ったという過去がある。「耐え抜いた」という点においては今でも精神的な礎になっているけれど、当時は「のめり込めなかった」という不甲斐なさがずっと自分の心の上に重くのしかかっていた。正直そこに関しては今でもしぶとくこびりついている。
ただ自分の中でコンプレックスは時にチャンスにもなった。キャラクターとしても印象強かったし、まず自分が謙ることさえ覚えてしまえば有効な一手目にもなったから。しかしそれも虚しいものだった。周りに友人はいたし、当時の稚拙な承認欲求を満たしてくれるだけの視線や評価もあったものの、自分の中に蠢く「こんなもんじゃない感」みたいなものとの折り合いはつかなかった。だから、人目を憚らずに吐露するならば、きっと当時の自分は周りの人間を腹の中で見下してなんとか自分を保っていたと思う。恥ずかしいし本当に申し訳ない。ここに全力で懺悔しておく。本当にごめんなさい。
そこから県内の大学の国文学科という学部に進学する。ちょうど入学当時は東日本大震災が起きた年で、学校の玄関には時代錯誤を起こしてしまいそうな赤看板なんかが置かれていた。「デモに参加しよう」そんな言葉が手書きで書き殴られているベニヤ板、朝イチの教室には全ての席にびっしりと生協団体のビラが置かれていたりした。「面白そう」だと思った。いや、もっと強烈な興奮を覚えたのを覚えている。それはきっと得体の死知れないものだったから。これまでの常識や価値観とは少し外れた閉鎖的な街。
大学に進学すると自分は軽音楽部に所属することにした。理由は「面白そう」だったから。あまり好きな表現でないけれど、今はあまり手を止めずに書いておきたい。「得体の知れないもの=面白そう」そんなニュアンスだと捉えて欲しい。ただやっぱり「面白い」という表現がどうしても苦手だ。なんだか少し上から目線で、荒を探したり、重箱の隅をつついてやろうとしたり、あわよくば良いとこだけさらってやろうみたいなあさましい眼差しに感じてしまうからだ。これはきっとトラウマみたいなもの。
ここまでの文章を読み返すとなんだかとても暗くて重々しいものに感じてしまう。誤解してほしくない。本当に書きたいことはここからだから。大学で出会った人々、風景、文学、音楽、バンド、思い出。そしてそこから今までの気持ちに整理がついたから。一旦ここで区切りにしておいた方がいい。