コンプライアンスとプロ意識~安藤優子キャスターの炎上問題について~
先日放送されたフジテレビの「直撃LIVEグッディ!」において、安藤優子キャスターの言動が物議を呼んでいる。炎天下の街をリポートするディレクターがあまりの暑さに意識を朦朧とさせ、リポートを継続することができずにスタジオに進行を戻したところ、安藤優子キャスターが「えっ、返しちゃうの?」と笑い、「もう一回お返ししていいですか」と再度リポートの続行を要求した、という流れである。
当然ながら、この言動をめぐってはSNSで大きな批判が寄せられ、安藤キャスターのパワハラともとれる姿勢に反感を示す意見が続出している。
熱中症に注意を呼び掛けるはずのニュース番組において、熱中症の疑いがあるディレクターに対して番組の進行を要求するというのは、番組としてのコンプライアンス意識を問われるべき事案だろう。しかしそれ以上に問われなくてはならないのは、安藤キャスターの言動に垣間見えた「仕事に対する時代錯誤な意識」であるように思う。
この「時代錯誤」は、安藤キャスター個人の問題というよりも、おそらく旧態依然としたあらゆる組織につきまとう問題である。「練習中に水を禁じる野球部」のような価値観、根性論や精神論と呼ばれる姿勢は、いまなお社会にはびこりつづけている。そしてそれは、一概に「悪習」として根絶しうるものではない。
根性論の根深さは、それが戦後日本において高度経済成長を支えた精神性であり、現在でもなお「美徳」としての面を持っていることに起因している。〈組織やチームを発展させるため、各人は命を賭して寄与しなければならない〉という価値観は、この国において戦後唯一の成功体験をもたらした。
明治時代まで「個人」という言葉が存在しなかったこの国では、「私」よりも「世間」が先だって考えられる、ということを指摘したのは阿部謹也であるが、自らが身を置く集団のために「私」を消す、という態度はこの国における根本的な人間の様態であり、またもっとも「成果」を導き出してきた態度でもある。
社会で言われる「プロ意識」とは、つまるところこの「集団のために私を消す」態度の徹底であるように思う。個人の苦痛や悲しみを押し殺し、「集団」としての最適な行動に没入していくこと。私たちはおそらく、集団を発展させるうえで、「これ以外の方法」をいまだに見つけ出せないままでいるのではないか。
「これ以外の方法」を理解していない限り、このような「時代錯誤な姿勢」を美徳とする価値観は消えることはないだろう。そもそも私たちは、「個人個人が苦しさを押し殺し、チーム一丸となって戦う高校球児」の姿に感動してしまうのである。
フラフラになりながらチームの勝利のために熱湯を続ける投手をたたえる価値観と、熱中症のリスクのなか仕事の継続を期待する価値観、両者は程度の差こそあれ、同根のものではないだろうか。
なんだか安藤キャスターを擁護しているようになってしまったが、彼女の言動そのものは時代錯誤のパワハラであり、嫌悪感すら覚えるものである。しかしその言動の背景にある価値観そのものは、社会のうちに根絶しがたい形で根差している。「コンプライアンス意識」と、「個を殺すことの美徳」、両者の二律背反をいかに統合するかということが、今後問われていくのではないか。