キミが落ちこぼれなのは、資本主義のせいだ。
この記事を読んで高校生のキミが得られるかもしれない利益:落ちこぼれという言葉は、今の時代ほめ言葉だからね。それは資本主義の枠を飛び出した異才のことだ。しかし、なぜ落ちこぼれなんて、不名誉なレッテルを貼られるんだ?資本主義を経営学の立場から定義する。
資本主義は貧乏を創る?
どこかの先生が、そう言っていたよ。
僕もそう思う。
経営学の立場から言うと、資本主義は弱者を創るといいたい。
それも意図的にだ、確信犯的な所業なんだ。
資本主義は例えてみれば、一つの工場だ。
この工場の運営ルールは、一つだけ、それは”効率”だ。
効率とは例えば1分間に10の動作をこなすことが、標準だ。
10の動作をこなせない労働者は、クビになるか、他部門に飛ばされる。
機械も同じで、1分間に100の動作を出来ない働きの悪い機械は、お払い箱になり、新しいもっと動作を多くできるマシンに取り替えられる。
原材料も同じだ。
鉄を作っている工場では、鉄鉱石を加工して鉄にするが、鉄鉱石によっては、叩いても、伸ばしても、溶かしても、いい鉄にならないものがある。
売れる鉄という製品にならないと判断されたら、その鉄鉱石は排除される。
そうだ、学校も工場と同じだ。
試験をやらされ、60分で正解率が60%以下だと、「バカ」と認定されて、学校をやめさせられたり、進学クラスに入れてもらえない。
先生の言うことを聞かないと、不良品とみなされ、学校を追われたり、特別の「バカ」だけ集まるクラスに入れられる。
もちろん「バカ」というのは、資本主義サイドの差別用語に過ぎなく、本稿の趣旨は「バカこそ天才」つまり天才バカボン、ということなのだ。
「効率が悪い」とは、一定時間に標準的なパフォーマンスを達成できないことで、学校ではそれは「バカ」と呼ばれ、差別される。
しかし、これが資本主義なんだ。
効率が悪ければ、工場の運営に都合が悪ければ、はじかれるんだ。
工場では不良品、学校では落ちこぼれと呼ばれ(今の時代はそうはっきりは言わないけどね)、ハブられるのだ。
でも、全体的な効率のために、不良品は排除されなければならない。
工場も、学校も、しかし、どうしても一定数は全体にとって都合の悪いものがでてくる。
それが僕の言う「弱者」であり、経済学者の言う「貧乏」なんだ。
つまり、平均のパフォーマンス以下の生活力しかない人たちだ。
もちろん本来はあるんだが、社会にハブられちゃっているんだ。
教育格差が生む社会の分裂
しかし、資本主義の権化たるアメリカは、社会の分裂に悩んでいる。
社会の分裂とは、貧富の差の拡大にほかならない。
人間を良品、不良品に分ける作業は、やはり学校で行われる。
不良品に認定されると、社会的に上に行く機会を奪われる。
いわゆるいい大学、いい会社が、不良品、落ちこぼれを拒否する。
エスタブリッシュメント(社会の上級階級)に拒否されると、生活が苦しくなる、つまり貧乏になる。
貧乏に生まれると、学校で、落ちこぼれの烙印を押される可能性が高くなる。
なぜならばお金がないと、参考書も買えないし、家庭教師もつけられないからだ。
かくしてアメリカは教育格差が広がり、それが貧富の差を広げている。
ナレッジワーカー(知識労働者)が主力の現代経済では、教育格差がそのまま貧富の差に直結している。
資本主義の矛盾
資本主義はあくまで自由競争が建前で、マネーをつかむ競争なんだけれど、結局は強いものが勝つ仕組みと言える。
強いものとは、必ずしもカネをたくさん持っているもの、とは限らない。
能力やスキルを持っているものも強者だ。
しかし、ここがトリッキーなところなんだ。
能力やスキルって、さっきの工場や学校のところで解説したんだけれど、工場や学校が決めた”効率”の基準にそったものではないと、不良品とされちゃうんだ。
キミもそうかもしれない。
そんなキミがテストを受けると、もちろん、学校が決めた正解になんかたどり着かない。
勉強どころじゃないし、先生や学校の考えと違うし、そもそもテストなんかで自分を評価されたくないから、やる気もない。
しかし、資本主義っていうのは、そんなキミを”落ちこぼれ”に認定するんだ。
かくして、キミのような隠れた天才は、社会から葬られるんだ。
仕方がない、社会に都合のいい”効率”を備えてなきゃ、資本主義に受け入れられないのだ。
自分の首を絞めている資本主義
人類は、自由競争でマネーを取り合えば、幸せになると信じて、資本主義が生まれた。
しかし、今や資本主義が人間を不幸にしている。
貧富の差を生み、分裂を広げている。
テクノロジーは進化したけれど、こうした問題を解決する制度や知恵は生まれてこない。
何でもカネや効率に変えないと気がすまないから、だ。
資本主義は、その価値観に合わないキミの、ユニークなポテンシャルに満ちた才能を活かすことが出来ない。
多様性という言葉が、闊歩している。
しかし、本当の多様性は、資本主義の偏狭なルールを取っ払ったところにしか生まれない。
具体的に言えば、あらゆるテストをやめることだ。
人間の才能やポテンシャルは、何かの尺度で測れるものじゃないんだ。
でもさ、人間社会って優秀さを、何らかの形で定義しないと、機能しないんだよ。
だから、一定時間で組織の価値観に沿ったパフォーマンスをできることを、”優秀”と定義し、それができないと”落ちこぼれ”とすることに決めたんだよ。
しかし、世の中は今、標準的な優秀な人間では解決できない問題があふれている。
資本主義という邪教
落ちこぼれのキミ(笑)、キミの出番だよ。
でも、キミは言うんだな。
「ワタシ、バカだから」。
ひどい、見当外れの思い込みだ。
これが資本主義の怖さであり、悪なんだ。
資本主義に合わないものを、精神の牢獄に閉じ込めてしまっているんだ。
まさにこれこそが洗脳というものだ。
笑えないよ、みんな、あの宗教のことを。
一番恐ろしいのは、資本主義という邪教ではないだろうか。
野呂 一郎
清和大学教授