視覚の時代から聴覚の時代へ。ラジオの逆襲が始まる
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:ラジオの可能性。視覚の時代は終わり、聴覚の時代が到来した。その理由はラジオがインクルーシブ、だから。
ラジオはオワコンか
昔、城達也のジェットストリーム、というラジオ番組がありました。
真夜中にやっていた音楽番組で、静かでしみじみとしたメロディの楽曲だけ流し、DJ(死語かな)の城達也の何とも言えないソフトな語りが間に入るシンプルな構成でした。
それがなんとも言えずによかったんです。
あれは、テレビやYouTubeでは出せない表現だなあ。
僕ら昭和世代は、中学生の頃はほとんど寝てなかったですね。
ラジオの深夜放送、というのがあったんですよ。
”オールナイトニッポン”とか、”セイヤング”とか、真夜中にやっていたから深夜放送。
谷村新司とか、土居まさるとか、レモンちゃんとかの名物DJが番組のアイデンティティでした。
ラジオでオリンピックのバレーボール決勝戦の中継を聞いたこともあります。1972年ミュンヘン五輪で日本が勝ったときです。
あのラジオ実況が伝える興奮は、今でも心に残っています。
いま、テレビCMで目にするアメリカンポップスは、ほとんどラジオで流れて、日本のヒットチャートに並んだのです。
時代だよ、と言われればそれまでなのですが、ラジオはオワコンなのでしょうか。
いいえ、逆です。
聴覚の時代はやさしさの時代
なぜ、いま、ラジオの逆襲の絶好機なのでしょうか。
そう、コロナ禍です。
人との会話はままならず、ストレスはたまる一方です。
一人お家に閉じこもって過ごす時間が多くなりました。
そんな時、城達也がやさしく語りかけてくれれば、深夜放送で悩みを共有できたらどうでしょう。
作り手の承認欲求だけ満たせばいいとばかり、視覚に訴えるだけのあざとい動画を見るよりもずっと、コロナに疲れたあなたの心をいやしてくれると思うんです。
ストレスの時代、孤独の時代は内省の時代ともいえ、あとで述べるインクルーシブという言葉は現代を象徴しています。
ラジオの時代、なのです。
ラジオはインクルーシブなメディアだ
この連載でも何度も言ってますが、時代はインクルーシブ、です。
インクルーシブとは、誰も排除しないことです。
非差別、多様性、公平性、平等の象徴がインクルーシブという言葉なのです。
今回の収録で、ラジオは実にインクルーシブなメディアだなあと気づかされました。
僕がある発言をしたら、ディレクターから、カットが入ったのです。
放送禁止用語、ということでした。
YouTubeと違うのは、そこなのです。
ネットはなんでもありの無法地帯ですが、公共の電波はインクルーシブがルールです。
不適切な表現には、編集というチェックが入るわけです。
それはある意味、つくり手に責任感をもたせ、受け手に安心感を与えます。
結果的にラジオが生み出す作品は、健全なものになります。
視覚の時代は終わった
ガーシー暴露なんとかとか、迷惑系動画などが跋扈する、YouTubeの世界は、ある意味、表現の自由がそこにあるともいえます。
しかし、受け手が不快の念を感じるならば、それは表現の自由とはいえないでしょう。
YouTubeは、視覚という人間の最も敏感な受容器をいたずらに刺激し、人を刹那的な時間消費に駆り立てているだけです。
視覚という刺激は、時として暴力的でもあります。
見た後に後味が悪いような画は、暴力にほかなりません。
その意味で、ラジオは安心できるメディアです。
一方で、聴覚はやさしさしか受け入れません。
ラジオって、やさしいんですよ。
聴覚の時代、ラジオの時代が来たのです。
今日も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
では、また明日お目にかかるのを楽しみにしています。
野呂 一郎
清和大学教授/新潟プロレスアドバイザー