こころの意思よりからだの意思。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:人間を動かすのは、こころであり、脳が司令塔であるはずだ。しかし、こころじゃなく、からだこそがひとを動かすのではないか。気乗りしないはずの武道の稽古が「なぜか絶対に出たい」で、体感した不思議。
合気道への執念なのか
火曜日と金曜日の夜は、合気道スクールに行く日です。
「年寄りのくせに熱心なこと」と思われるでしょうが、実はそんなに熱心でもないんです。
しかし、きのう、合気道に対する自分のほんとうの気持ちがすこしわかった気がしたのです。
きのうは仕事は研究日で休みのはずが、急きょ勤務先大学の一大事で呼び出され、合気道の稽古に大幅に遅刻するか、欠席を余儀なくされる事態になってしまいました。
本来の僕なら、これ幸いと稽古をサボるはずが、なぜだか身体が「どうしても合気道の稽古に出る、這ってでも出る」と言って聞かないのです。
身体に動かされる感覚
僕は、はやる”身体”に、言ったのです。
「おいおいどうした。いつものお前らしくないじゃないか。それにお前、合気道、そんなにスキじゃないんだろう。仕事が入ったんだし、堂々と休めばいいじゃないか?」
すると身体はなぜか黙り込んで、でも、無理やり僕の心の迷いなど無視して、肉体を急かすのです。
どうしても合気道に行かせようと、僕の身体は、大学のある木更津から新宿方面にどう行けば最短で行けるか、などを調べ始めました。
もともとそんな緻密なことはできないので、僕は勝手に動く身体を呆れて見つめているだけです。
身体という意思
僕は少年時代から武道をやってきましたが、全部中途半端に終わったのは、そもそもやり遂げる、最低黒帯を取るという覚悟がなかったからです。
本当に、それら武道がスキではなかったからです。
時に「サボりたい」誘惑に勝てなかったからです。
それがきのうは、そんな心の欲求、怠惰を嘲笑うように身体が「やる、どうしてもやる」と、僕を動かしています。
僕は、生まれて初めて「身体の強烈な意思」を感じました。
身体の意思が心の意思、つまり怠けたい、興味がない、やりたくない、などを駆逐してしまっているのです。
それは、なぜなのでしょう。
おとなになって自分の欠陥と向き合い、意思の弱さが人生をダメにしていたことにとことん気づき、まっとうに生きるために自らの肉体がこの男の人生の危機を感じ、ビルトインスタビライザーのごとく自動的に作動し始めた、とでも言うのでしょうか。
とにかく、自分の中にはっきりと「強固な肉体の意思」というものをはじめて感じたのです。
合気道の稽古に限らないようで、なにか僕の中に「肉体」というスイッチが生まれた気がするのです。
身体全体が意思となった、などは大げさに過ぎますが、さっき申し上げたように、ぼくのこころではなくて、からだがおそらく、すべきことを知っているのです。
「これはしっかりやらないとダメ、お前の夢とやらを実現するならば、な」、と。
きのうの行事は、突発的な変更が入り、予定より大幅に終了が早くなり、無事に合気道の稽古になんとか間に合いました。
僕の身体の意思が、状況を自分に都合のいいように動かした、ような気さえしました。
僕は自分の身体に言いたいんです、「なんでもっとはやく、お前は機能してくれなかったんだよ」と。
野呂 一郎
清和大学教授
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