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黒澤明監督と武藤敬司が新年に示唆する、日本の進むべき道。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:日米文化の本質はアナログvsデジタルという気づき。黒澤監督がなぜ映画トラ・トラ・トラの監督を解任されたかの経営学的理由。あなたが、日本が今後デジタル化するというのならば、大きなものを失うだろうというおせっかいな予言。プロレスラー・武藤敬司がなぜあれほど人気を誇った米マットを捨てたかの本当の理由。日米プロレスの本当の違い。なぜ、日本でプロレスが永遠なのかを解き明かす。
デジタル化であなたが失うもの
新年早々、友人のH氏がまた金言をくれました。昨日の拙いわたしの記事を見て、ひらめいたらしいのです。
以下許可を得たので、掲載します。
H氏のことば
足りないのは問題を立てる力だと思います。あるゴールを目指している時に、そのプロセスの中に新しい問題の芽が散りばめられている。時にその時のゴールと関係なかったり、解き急ぎ過ぎたりで、大切な芽が見えない。
デジタルでは問題から解答までが一直線で、今得た解答からしか次の問題が発想出来ない。プロセスにある小さな芽達は他の分野、方法論を結び付けて、今解いている問題をもっと大局的な問題に格上げする可能性すらある。
自分が尊敬している人達は、失敗するとそのプロセスを丁寧に丁寧に確認して行く。失敗の原因を探しているのは勿論、どうも失敗の中、プロセスにこそ新しい問題が潜んでいると思っている節がある。
プロセスの中から偶然を装って現れる小さな芽達を見つける丁寧さと、それらを結び付ける大胆さと、を才能と言うのかも。
いやあ、これを卓見と言わずして、何を卓見というのでしょう。
おこがましいですが、オレ流に解説を試みます。
合理的な行動があなたの首を絞めている
足りないのは問題を立てる力だと思います。あるゴールを目指している時に、そのプロセスの中に新しい問題の芽が散りばめられている。時にその時のゴールと関係なかったり、解き急ぎ過ぎたりで、大切な芽が見えない。
要するに仮面ライダーV3で言えば、デストロンの怪人を創り上げるというゴールがあるとしましょう。
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デジタルでは、怪人つくりに必要な情報をまず集めますよね。合目的な行動です。
その他にこうした情報をAIにインプットします。
1. 過去の怪人のモチーフ
2. 過去の怪人の性格
3. 過去の怪人の行動様式
大雑把に言って、この3種の情報をAIに読み込ませればいいわけです。
しかし、これを人力でやるとしましょう。
例えばブレーンストーミング。
自由に忌憚ない意見を出し合って、アイディアを出す方法です。
ブレーンストーミングには禁忌、タブーはありません。なんでも言っていいのです。普通に会議をやってもいいでしょう。アウトソーシング、外注もありですね。
さて、AIの意思決定は、合目的なことがおわかりでしょう。
一直線に目的にたどり着くという行動です。
一方、人力のほうは、必ずしも目的に一直線ではありません。
複数の人間が関わっているとすると、合議制だとすると、たとえば、コーヒーブレイクがある。そこで出た雑談が、実は怪人決定の最重要事項になったりするのです。
日本文化における宴会の重要さ
世界のクロサワこと、黒澤明監督は撮影に入ると毎日宴会を欠かしませんでした。そこでは全スタッフ、全役者が旨い料理と酒に舌鼓を打ちながら、今日の撮影を振り返り、あーでもない、こ~でもないとやりあうのです。
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黒澤組の記録担当だった野上照代さんはこう言っています。「宴会は創作に必要だったのよ」。
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人力による、つまりアナログの創作における意思決定とは、そういうものなのです。
黒澤監督については、また別の機会に詳しく論じますが、面白い話があるのです。
それは、実はデジタルが時代の中心に躍り出る相当前から、「実はアメリカはデジタル的で、日本はアナログ的で、それこそが両国の文化の違いだ」という証拠でもある、お話です。
ハリウッドvs黒澤組は文化の戦いだった
昨日、黒澤監督の特集番組を見たんです。
黒澤監督自殺未遂の引き金を引いたとされる、映画・トラ・トラ・トラの秘話の章でした。
ハリウッドから日米開戦をテーマにしたこの作品の監督を依頼されたはいいが、途中で解任された事件のエピソードが、監督のご子息、黒澤久雄さんから語られました。
![](https://assets.st-note.com/img/1641189203750-1pKhcxMQVS.png)
その久雄さんの話が、大変興味深かったのです。
「最初から、これは無理だな、と思ってたよ」というんです。「契約書が送られてきて、こんなにたくさんいろんな規制があるんじゃ、親父はできっこない。向こうのやり方とは合わない」そんなことをおっしゃるのです。
この事件の深奥は、一言で言えば、
「デジタル文化のアメリカvsアナログ文化の日本」です。
どういうことかというと、これは映画に限りません、後で述べるプロレスでもそうですが全て契約ありき、これがアメリカという国のルールであり、本質なんです。
成功というゴールのために、必要なことだけ規定し、その他必要でないと考えられるものを全て排除し、それを守らせるためにご丁寧に法的な縛りもつける。
一言で言えば合目的的(ごうもくてき的)、です。これは結果という点のみを要求するデジタル思考、デジタル文化といえましょう。
日本は違います。
回り道をして平気です。雑談あり、お茶あり、そして得意の宴会もあり、です。
契約書なんてあってなきの如し。
映画でもビジネスでも、契約書が存在しないことも珍しくありません。
すべては阿吽の呼吸みたいな、ファジーな様相で進んでいくのです。
目的はあるんだけれど、それに一直線に進むことはしません。寄り道だらけのアナログ思考、アナログ文化です。
黒澤組の文化はもちろん後者です。
しかし、結果としてどちらがよいものを創れたのか。
黒澤組全盛の時の作品と、その当時のハリウッドならば、黒澤組の圧勝でしょう。
大切な芽を取り逃がさない日本文化という強み
デジタル文化は、コンピューターという近代兵器を得て、アメリカではますます、この合目的なやり方がスピードアップ、パワーアップしているのはご存知のとおりです。
しかし、ここでH氏の言葉を思い出してください。
足りないのは問題を立てる力だと思います。あるゴールを目指している時に、そのプロセスの中に新しい問題の芽が散りばめられている。時にその時のゴールと関係なかったり、解き急ぎ過ぎたりで、大切な芽が見えない。
そうなんです。この言葉は、合目的・的にゴールを目指すと、ゴールと関係ないことは切り捨てられますから、新しい問題の芽、大切な芽も切り捨てられちゃうんです。
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宴会が生み出した創造
黒澤監督の傑作は、目的達成とは無関係の、宴会が生み出したと言っても過言でないのです。
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こんなことは証拠として残ってないでしょうが、黒澤監督が宴会で得たインスピレーションが、数々の名シーンに生きていることは、周囲の人間の話や行動から、明らかに読み取れます。
ハリウッドの契約書は、おそらくこんな感じでしょう。
・監督は期限内に撮影を完成させる義務を負う
・監督はスタッフに1時間に一度休憩をとらせる義務を追う
・監督はスタッフ、演技者に人間的な振る舞いをすることを義務付ける。それに反した言動をした場合は即刻解任する
・撮影に関係ない飲み会のようなものは一切禁止する
・監督は自身の勝手な理由で休むことは許されない
黒澤久雄氏は、これらを読んですぐに「こりゃ、親父とあいっこねえ」と悟ったのです。
それは今でいう、アナログ文化vsデジタル文化の相尅でした。
武藤敬司がなぜ日本に帰ってきたのか
世界一のプロレス団体WWE、当時はWWFと呼ばれていましたが、その頃、武藤敬司はアメリカマットで頭角を現しつつありました。
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WWEに呼ばれ、メインイベンターとして活躍したのですが、いきなり驚いたことがあった、というのです。
これはまさに黒澤久雄さんと同じでした。
彼は契約書を見せられて驚いたのでした。
分厚い電話帳2冊くらいある文書でした。
彼は全部理解したわけではないでしょうが、リング内外での行動規制、禁忌事項の多さ、その具体性に圧倒された、というのです。
例えばロープ最上段からの攻撃は禁止、バックドロップ、パイルドライバーは禁止、ファンから握手やサインを求められたら必ず応じること、外出はネクタイ着用、などなどです。(一部想像)
もちろん、黒澤久雄さんのように武藤敬司も、これに強い違和感を感じたのです。
要するに、日本のプロレスは契約書などないし、細かい禁止事項などないからです。
プロレスをとやかく言う人がまだいますが、このことは、実はプロレスというのは「アドリブの格闘芸術」である証拠です。
アメリカのように規制でがんじがらめにすれば、制作側に都合のいい、予定調和的な興行ができるでしょう。
しかし、日本のプロレスがなぜ独自の発展を遂げ、今もファンをひきつけてやまないのか。
答えはそのアドリブ性にあります。
つまり、レスラーが状況の変化を察知し、その時々で対応し、ファンを喜ばせたり、劣勢を攻勢に変えたりする、臨機応変さ、なのです。
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契約書で規制でがんじがらめにされたアメリカのプロレスも、ある種の「お約束」の安心感そのものがエンタテイメントともいえましょう。
最近日本マットに来たがる有力外人レスラーが多いのは、契約書でがんじがらめにされたファイトを嫌うのが理由だと、僕は考えています。
スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンが世界的にブレークしたのも、日本で”違うプロレス”に遭遇し、レスリングの幅が広がったからではないでしょうか。
![](https://assets.st-note.com/img/1641191120971-3mjdXEpWxf.png)
アメリカの観客はまた、こうしたある種の興行主導のイベントを歓迎します。
しかし、日本のプロレスは、デジタル的つまり合目的的な規制がないために、予定調和的なプロレスでなかったから、ここまで発展したとは言えないでしょうか。
H氏は、
足りないのは問題を立てる力だと思います。
と言っていますが、これは言いかえると、
ゴール達成に必要な情報しか集めず、ゴール達成に必要な行動しかしてないから、頭と身体が固まっている。それ故に、ゴールなどよりもっともっと大事な、ビジネスでも個人の生き方でも、「問題を立てる力」を失っているということです。
H氏の言葉を最後、わたしがあえてまとめてみましょう。
「デジタル行動、つまり合目的的な、合理的に思われる行動は、あなたを視野狭窄に陥れ、可能性を奪い、しまいには自由さえ奪う。」
これを今年からの日本の国策方針に落とし込むと、
「ハリウッドのマネをするな、黒澤組に帰れ」
ということになるでしょう。
Hさん、随分曲解してますが、ありがとうございました。
ではまた明日会いましょう
野呂 一郎
清和大学教授/新潟プロレスアドバイザー