懸賞論文のすすめ。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:ここのところ、懸賞論文に取り憑かれています。その自分の心理を探ってみました。そうするとでてくるのは「青春の蹉跌」ばっかり・・・。懸賞論文、が愚痴になっちゃった笑。
自分を変える可能性
懸賞論文にトライすることは、自分を変えることにつながると強く感じるんです。
ジイさんのくせに、なに自分を変えるなんていってんの、って話ですが、これは経営学をやっているものの佐賀、いや性なんでしょうね、変わる、変える、って言葉に敏感です。
なにせ経営学っていうのは、変化についての学問であり、変化を研究し、変化の本質を突き止めようとするので、自分も変化に巻き込まれることをよしとしないと、こいつとつきあえないのです。
懸賞論文っていうのは、今の世の中で起きていることの解決策を求める、っていうのがほとんどなので、まず今の変化っていうことを論じなければなりません。
それについ魅力を感じて、しまうのです。
もう一つ、懸賞論文に心ひかれる理由は、それが他律的な行為だからです。
他律的の反対は、自律的、つまり自主的、自ら目標を立てて、それに取り組むことです。
他律的というのは、いわば他人まかせの姿勢であり、他人が創った命題や問題に関わろうという態度であり、いわば、受動的な姿勢のことです。
なんだ、いつもお前が言っている「主体的」だの「積極的」だのと違うじゃねえか、宗旨替えかよ、と非難されるかもしれません。
そうではなくて、自分で自分の方向を決めることと、正反対のことをやることで、自分の可能性が広がるんじゃないか、自分を変えることができるかも、という期待に胸が焦がされるのです。
人生って受け身のほうが、ダイナミックに自分の可能性を伸ばせるじゃないか、っていう逆説、を今日は皆様と考えてみたいのです。
懸賞論文を書くことは、自分が決めたことじゃないがゆえに、自分を開発することができるんじゃないか、と思うんです。
自分にこだわることのつまらなさ
弁護士になりたかったんです。
しかし、学生時代にすでに頓挫しました。
学生時代は、司法試験合格を目指していて、目的もなしになんとなく学生生活を送っているクラスメートたちを軽蔑していました。
しかし、夢破れた時に気がついたのです、「真っ直ぐ進む人生は自分の可能性をドブに捨てることだ」、と。
道中、もっといろんなものに興味を持つべきだった、司法試験以外のことに心を動かされればよかった、もっと本を読めばよかった、プロレス以外の趣味を持てなかったのか(笑)、などという後悔に襲われるようになったのです。
あの時、学友たちを馬鹿にせず、一緒になって遊べばよかった、海外を見てくればよかった、経済、経営も勉強すればよかった、そんな思いがいま強くあります。
結局その後の人生は、弱いがゆえに流れ流されて、妙なところにたどり着いてしまいました。
能力もないのに、弱いくせに、司法試験なんて無理だったのに、変な見栄だけで、夢を追ったのです。
しかし、読者の皆様すでにお気づきのように、弁護士になりたいという願望自体が、ニセモノだったのです。
いまにして思えば、弁護士という職業もよく知らないくせに、親の期待や自分の虚栄だけで、弁護士を目指していたのです。
こんな程度のモチベーションで叶う夢など、あるわけがなかったのです。
他律的な人生こそが面白い、かも
まだいい年こいて「俺は何がやりたいんだろう」などという、青臭い悩みの中にいます。
でも、いい加減気がつくべきなのです。
頭も悪いし取り柄もない自分は、「何やりたいんだ」なんて考える必要ないんです。
行き当たりばったりでいいんです、その都度やりたいことやってりゃあ、いいんです。
流されてたどり着いた、なんて言ってるけれど、もっと積極的に流れてよかったんです。
下手に「俺の可能性が」なんて考えるなんて、笑止千万であり、逆に自分の可能性を狭める行為だったのです。
夢は自分を矮小化するのか
世の中は、夢がないとダメ、みたいに言うじゃないですか、いつの世も。
でも、夢っていうのはその時の自分のつたないチカラや、浅い認識を元に考えつくものですよね。
僕みたいにバカは論外ですが、若いときはみんなそのような傾向にあります。
プロ野球選手のようなケースや、その他の分野での天才は別ですが、あまり「夢」などにこだわらないほうがいいのでは、と今は考えるのです。
それはあなたが気がついてない才能は、その時発動してないかもしれないからです。
そしてその後の人生に、とんでもないことが起きて、あなたは化けるにちがいないからです。もちろん、いい方向に。
夢にこだわると、もっと大きなあなたの可能性に、あなたが気がつかないで終わってしまう、そんな危惧をするのです。
もちろんそんなこと考えなくても、人生なるようにしかならない、のですが。
僕の知り合いの賢者は、いつもこういうんです。
僕もそうすればよかったんです。
懸賞論文は、まさに他者からの頼まれごとにほかなりません。
だから、自分を変えることができるのです。
結局、欲求不満なんですね、自分を追いきれなかった、可能性をつかまえられなかった、負い目をこの年になっても晴らしたいという怨念・・
ああやだ。
野呂 一郎
清和大学教授