武智倫太郎先生に見る「気の力」。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:合気道は単なる武術としての合理性だけではなく、科学で解明しきれない神秘性をたずさえている。それを私めは、武智倫太郎先生に見つけた。そんな勝手な言いがかりで、「共感力」と「気の力」の関係を追ってみたよ。トップ画はhttps://x.gd/rl9Ym
共感力の正体は「気」なのか
武智先生のリーダーシップ論の中心にある「共感力」は合気道にも、プロレスにも存在することが今回はっきりしたわけです。
その「共感力」を撒き散らしている張本人は、実は「超能力」を持っております。
それは「気の力」ではないかとにらんでいるのです。
先生が練達の合気道家であることがはっきりしたわけですが、合気道とは「気」で相手を投げ飛ばす武術であるとの解釈もありえます。
武智先生の「共感力」の正体は、「気」なのです。
「気」のパイオニア、藤平先生との出会い
数十年前、僕が合気会の新宿本部道場に通ってきた時の話です。
僕はその時足を捻挫しており、その不自然さを見とがめた人物がいました。
道場の廊下ですれ違った、後年合気会を去り、「心身統一合氣道会」という合気道における「気の力」を打ち出した合気道を創始した、藤平光一(とうへい・こういち)先生でした。
藤平先生は「キミ、足、どうしたんだい。僕が気を入れて治してあげよう」そう言われて、外人の弟子に命じその場で僕の患部に「気を入れて」くださったのです。
直接の施術ではなかったのですが、指圧ともマッサージとも違う、その不思議な感触に心地よさを感じた僕は、少しまどろんだことを覚えています。
気がついたら、痛みが消えて、捻挫は完全に治っていました。
「えーっつ、合気道の『気』ってこれなのか!」、当時高校生だった僕はまだその時のことを強烈に覚えています。
「気」の定義や解釈には様々なものがありますが、僕が経験したのも紛れもなく「合気道の気」ではないかと思っています。
そして、合気道に熟達したものは、自覚がなくても「気の力」というものを持っているのではないか、そう信じるようになったのです。
それは病気平癒にも、こころにも作用するパワーです。
気の力は共感力のこと
今回、Green Leafさんが武智先生に共感して、僕と先生の「リングネーム募集」を企画してくださいました。
これは、あり得ない現象ではないでしょうか。
この件で共感し、動いた方はかなりの数に上ります。
これはまさに、武智先生の持つ「共感力=気の力」のなせるワザではないでしょうか。
もちろん、毎日大変な質と量を伴う記事で、幅広い読者を共感させているのは、事実ですが、それにしても今回の「事件」は無視できない現象です。
ある種の念力、テレパシーで、相手を感応させるわざ、それが気の力ではないのでしょうか。
経営学の真髄とは、仮説を立てることであり、僕の「共感力は気の力である」論もそれはそれでよいのです。
武智先生は、意図を持って今回Green Leafさんを動かしたわけではありません。
しかし、合気道の練達が彼の発信力になにがしらのパワーや目に見えない力を与えていたとすれば、これはこれで合気道の可能性ではないでしょうか。
合気道の修練とは、他者を重んじ、調和を心がけ、それを肉体と精神に染み込ませることです。
そこから生じる武術的な強さは、副産物に過ぎませんが、攻撃性を排除し、ある種平和を志向する精神状態をキープしながら、無駄な腕力や動きを排除する動作の繰り返しで、なにか不可思議な「ハラ(腹)」のようなものができてきて、それがスピリチュアルなパワーを生むのではないか、というのが僕の荒唐無稽な見立てなのですが。
もっと突拍子もない解釈をすると、他者を活かし、調和を求める心が「神」とつながり、その人に神氣を与え、徳の養いをしている・・のかもしれません。
「合気神社」があるくらいですから、合気道と神様の存在は切っても切れないと考えるのですが。
合気道の「気」をヒントに独自の呼吸法を開発した人に、西野バレエ団主催の西野皓三氏(故人)がいますね。
藤平先生もお亡くなりになりましたが、一度謦咳に接するべきだったな、と後悔している次第です。
でも、そのかわりに「武智先生の一挙手一投足を観察し、合気道と気の力の謎めいた関係を解き明かしてやろう」、そんな邪心が生まれつつある、今日このごろなのです。
ちなみに僕が知っているデータによれば、合気道を長年修練している人は、例外なく非常に知的なスタミナがあるのです。
こんな事実も「合気道の気の力」解明のヒントになるかも、です。
野呂一郎