シバターvs久保戦でわかった「プロレスの本質とは自由」(東スポ六角形①)
この記事であなたが得られるかもしれない利益:プロレスの本質。東スポのアイデンティティとは何か。アンチプロレス派の誤解を解く。
シバターvs久保戦でわかったプロレスとは何か
いま、ネットで大騒ぎになっている、大みそかのシバターvs久保優太戦。
ネットで気になるのは、この試合を引き合いに出して、プロレスをバカにするコメントがあふれていることだ。
アンチにとって、プロレスはどうしても八百長であり、ショーであり、台本のある筋書きのある格闘もどきでないと気がすまないらしい。
ネットにはこの試合を引き合いに出して、プロレスを貶めるコメントが溢れている。
でも東スポは笑っているだろう。なぜならプロレスの本質は「非常識」だからだ。
非常識なんだから、時としてインチキ呼ばわりは宿命と言える。
しかし、非常識の根幹にあるのは、”自由”なのである。
自由とは、多様性、といってもいい。どんな見方をされても、どんなとらえかたをされてもびくともしない、それがプロレスなのだ。
時折こうしたプロレスを理解できない者たちがプロレスをあざけるのは、そのものたちに自由がないことを、図らずも物語っているのだ。
なぜ、東スポ六角形の頂点がプロレスなのか
さて、きのうの続きで、今日も「東スポ六角形」を解き明かす試みだ。
六角形をもう一度見てほしい。
今日は、六角形の頂点に君臨する、プロレスを取り上げる。
マスコミ七不思議の一つに、なぜ東スポがプロレスをとりあげるのか、こうまで肩入れするのか、というのがある。
これは解き明かされてはいないが、経営学的にはこう説明できる。
アイデンティティという言葉が、いま経営学で非常に注目されている。
平たくいえば、矜持(きょうじ)ということだ。
アイデンティティとは、つまり、自身の全存在を、それに託す存在のことである。
つまり東スポ=プロレスなのである。
先ほど言ったように、プロレスを言い換えると、非常識→自由、になる。
日本にほんとうの自由がないから、自由を表現するのはむずかしい。
だから、東スポはそれを外来スポーツ、プロレスに託したのだ。
自由こそが、あらゆるイノベーション(改革)の基本だ。
ビル・ゲイツ、ザッカーバーグ、イーロン・マスク。いずれも自由人を絵に描いた存在ではないか。
いったい、東スポ以外のどの新聞がUFOを一面に持ってくるというのだ。
反則5カウントがプロレスを自由の砦にした
くりかえすが、プロレスの本質は「自由」である。
それは他のスポーツ、格闘技にない、あるルールのおかげだ。
そんなハチャメチャなルールがあること自体、プロレスがスポーツでもなければ、競技でもないことを物語っている。いや、それらを”超えている”というべきか。
しかしこの反則5カウント以内OKというルールこそが、プロレスを自由の象徴に祭り上げた。
そこからプロレスの価値の多様化、いや無限化が始まった。
プロレスの価値の中心にはどの格闘技にも負けない強さ、そしてそれを担保する、超人的な過酷トレーニングがある。あくまでそれがベースである。
この映像にその真実を見ることができよう。
しかし、反則5カウント以内が導入されて以来、プロレスは単なる格闘技を超えて、あらゆる価値に挑むようになっていくのである。
プロレスへの誤解を解く
普通の格闘技の価値感は勝ち、負けだけだ。
プロレスはそうではない。いかに面白くするか、いかに見るものを興奮、熱狂させるか、だ。
プロレスが興行、つまりビジネスである限り、興行主の利益が上がるビジネスモデルありき、という疑惑が持ち上がるのもやむを得ない。
しかし、ヤフー!ニュースのコメント欄でプロレスの悪口を言っている人間たちが浅はかなのは、実にここなのだ。
もしプロレスが彼ら彼女らの言うような台本のある出来レースであれば、70年間も続いてない。
プロレスの自由さ、多様性は、そんなつまらない価値にプロレスを閉じ込めてやしない。
アントニオ猪木のこの言葉は、その間のことを物語っている。
アントニオ猪木が語るプロレスの本質
アントニオ猪木はこう語っている。世紀の一戦と言われた当時の現役プロボクシング・ヘビー級王者のモハメド・アリと戦ったあとの言葉だ。
台本があるとか、勝ち負けが決まっているとか、アンチの決めつけは、見当外れなのだ。
プロレスの本質は「臨機応変」
一流レスラーほど、自分で自分自身の価値観で試合を組み立てる、時として勝敗をも決める(かもしれない)。
それは社会情勢、政局、景気といった経済状況さえ反映する。
浅薄な、いわゆる暴露本の影響なのか、自分の目でプロレスを見ようともしないくせに、アメリカ・プロレス界の隠語の”ブック”だとか、シュートだとかの皮相な用語を鵜呑みにしている層が増えたせいなのか、プロレスを”予定調和”と誤解している人達がいる。
例をあげよう。それもここ1週間の。あくまでこれは筆者の想像でしかないが。
棚橋vsKENTA
1月5日、新日本プロレス東京ドーム大会で行われた棚橋弘至とのIWGP USヘビー級戦。KENTAは5メートルの巨大ラダー(脚立)から落下。鼻骨骨折、左股関節後方脱臼骨折、背部裂傷、の重症を負った。
KENTAは「これもプロレスだと思っている」と、試合後に語っている。
彼、KENTAは、プロレスラーが命がけで戦っているところを見せたかったのだ。そして、勝負を超えたプロレスの非常識さも、満天下に示したかった。
もちろん棚橋がラダーを揺さぶって、KENTAが大怪我をするなどというシナリオがあったわけではない。
しかし、KENTAは勝敗関係なく、プロレスラーの命がけのスピリットを見せたかったのだ。
それは、想像するに、大晦日の総合格闘技を意識したのだ。
世論がMMA(総合格闘技)に傾いているタイミングで、プロレスの”強さ“、プロレスラーの”命がけ“を表現したかったのだ。
まさに身体を張ってプロレスの多様性を表現した、KENTAの容態が心配だ。
オカダvs清宮
1月8日に横浜アリーナで行われた新日本プロレスvsノアの対抗戦。メインでノアの清宮海斗だ。武藤敬司(59)vs新日本最強コンビ、オカダ・カズチカ、棚橋弘至の一戦。
ノアの若武者清宮をオカダがなぶり殺しにし、最後は超危険なツームストンパイルドライバーで清宮を葬った。清宮は敗戦後号泣し、これが大きな話題になった一戦だ。
筆者に言わせれば、全てオカダが演出したのだ。
これだけの実力差があれば、清宮を活かすも殺すもオカダ次第。負けてみせることだってできた。
しかし、オカダの見せ方は、一方的になぶり殺しにして、清宮に屈辱を味あわせることだった。
オカダの狙っていたのは、勝つことなんかではないのだ。
清宮に悔し涙を流させるくらい、一方的に叩きのめすことだった。
この”見せ方”で、プロレスの魅力は強さなのだ、ということを表現したのだ。
オカダも格闘技に対しての対抗心があったし、世の中が「プロレスのチカラ」で盛り上がっていることを背景に、それに応えるファイトをしたに過ぎない。
つまり、世相を読み、時代の空気をオカダなりに消化し、それをプロレスで表現したのである。
極論すると、オカダはわざと負けることだってできたはずだ。
レインメーカーを故意に空振りし、清宮にジャーマンを食らって勝たせることだってできたろう。
しかし、それでは、観客の感情は揺さぶられない。お客はどちらが強いかなんて知っているからだ。
清宮に一切の反撃すら許さず、完膚なきまでに叩きのめすことで、清宮に敗者の美学を発揮させる機会を与えたのだ。
おあつらえ向きに、演技ではなかろうが、清宮も号泣して、そこに敗者への同情、憐憫、応援が集まりそして爆発し、清宮は敗者だからこそのこの試合最大のスポットを浴びるという、見事な逆説が生まれた。
偶然が生んだ、カネになる局面。
何のことはない、オカダが全て計算して、清宮をスターにしようとしたのかもしれない。それもプロレス界全体の発展を考えて。
団体うんぬんをぬきにして、この25歳の若武者に未来のプロレスを託したかったのだ。
以上、僕の勝手な思い込みに過ぎないかもしれないが、ヤフー!のアンチプロレスコメントが、プロレスを理解してないことからくる誤解だとわかってもらえただろうか。
そして、プロレスの根幹には自由がある。
猪木、オカダ、棚橋、KENTAあたりになれば、勝敗なんて遥かに超えて、今という空間に、時代の文脈やプロモーターやファンや、テレビ局や、そしてもちろん自分の美学などを総合的に斟酌し、ベストのファイト=表現を自由自在にできるのだと思う。
いや、そんなことを考えなくても身体が勝手に動く、のかもしれない。
こんなことは総合格闘家にはとても真似ができない。
最後に断っておきたいが、これはあくまで僕の個人的な見解であり、
「プロレスってこういうもんなんだ」と断定しているわけではない。
「プロレスはこういう見解も受け付ける」、これだけは間違いない。
プロレスはブラックホールであり、宇宙だからだ。
どんな見方も、考え方も受け入れる、そのことを言いたかった。
今日も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
ではまた明日も東スポ六角形の続きをやります。
野呂 一郎
清和大学教授