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テレビ取材とnoteの共通点。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:テレビに映ることも、noteで記事を書くことも、社会的関係を築く行為にほかならない。そうだとすると、自ずとある自制のようなもの、を要求されるのではないだろうか。
テレビカメラの前でどう振る舞うか
きのう、カメラの前での葛藤をお話しました。
ある意味で、急に日常生活にテレビカメラが入ってくるのは、暴力と言えるかもしれません。
テレビはそして色々ずけずけと聞いてきます。
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もちろん、答えるのも答えないのもこちらの自由ですが、ひとたび映るのをOKをしたら、そこにはいやおうなく「社会的な関係性」というものが生まれます。
テレビ局とその人、その人と視聴者という社会的な関係です。
テレビ局はある意図を持ってカメラを向けます。
誘導もします。
その答えが意に沿わない場合は、カットです。
ただ、あくまでこれは僕の考えでしかありませんが、この社会的関係では、テレビに映る人はある意味社会的モラルを要求されるのではないでしょうか。
わきまえるということ
ある種のわきまえ、です。
カットを覚悟で、不適切な言葉を吐くのは論外ですが、かといってテレビの意図を忖度して、体制向きの発言をするのも違う、自分の意見を素直に言えばいいのですが、その言い方が問われると思うのです。
視聴者が不快の念や差別やハラスメントを感じないような、表現の仕方を求められる、のです。
これはテレビの街頭インタビューだけに限らないでしょう。
あなたが書いているnoteだって、noteを書くことそれ自体が社会的な行為であり、記事があなたと社会を結びつけるいう意味で、noteをやるひとは社会的関係を構築していると言えます。
テレビに映ることも、noteで記事を出すことも、社会から瞬時に評価を受けることになります。
僕はその「わきまえ」こそが、あなたの評価につながってしまう、と考えるのです。
マーケティングとの関連でいうと、どんなユニークなプロモーションをやってもいいが、「わきまえ」がないとならない、ということです。
わきまえとは、その人の知性である、とも言えましょう。
あなたが外に出るとき、つまり自分を表現する時、それはあなたという知性を世に放つことになるわけです。
デジタルタトゥ時代の新常識
YouTubeの時代、テレビに映らなくても自らを映像化して、世に出すことができる時代です。
noteも、YouTubeも自己表現ということでは、全く同じです。
ただ、気をつけなくてはならないのは、デジタル空間に一度乗っけたあなたの分身である映像と文章は一生消えない、ということです。
ネットに一度でも乗ったあなたの一部たちは、世にいうデジタルタトゥにほかならず、入れ墨のように消えません。
有名人じゃないから大丈夫、そんなことはありませんよ。
昔あなたが彫ったタトゥを、あなたに内定を出した会社の人事が、婚約を交わした彼女の両親が、あなたを県の首長に選ぼうと考える有権者が、みんな覗きに来ます。
あなたがデジタル空間に残したものが、これからあなたをいかようにもするのです。
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漫才師の彼が、何年も前のネットの書き込みが不適切だと糾弾され、インスタに一緒に写っていた人物が問題だと、炎上しました。
ひとたびネットに刻印されたあなたの表現が、あなたを上げ、そして下げる時代なのです。
野呂 一郎
清和大学教授