教わった技じゃなくて、盗んだ技じゃなきゃ使えない。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:武道の道は人生に通ずる。本物の武道の師匠は、弟子にていねいに教えない。教えを絶対の真理として伝えることは、武道家としての資質を奪いかねないからだ。では、武道家としての資質とは何か、それは「自ら学ぶ姿勢」である。それを武道では「盗む」という。トップ画はhttps://x.gd/EDo0l
教わる、と盗む、の違い
「教わった技なんか使えないよ。盗んだ技、じゃなくちゃ」。
尊敬する合気道の先生の言葉です。
盗むことと、教わること、この2つの言葉の対比にこそ、この言葉の深い意味があります。
教わるとは、先生が丁寧に動きのひとつひとつを説明し、実演して見せてくれる技をそのとおりにやることです。
盗むとは、先生や先輩、同輩の技を見て、気づくことです。
教わる、と、盗む、両者の違いは学ぶ側の”態度”にあります。
教わる、は、物事には正解がある、と考える態度のことです。
盗む、は物事には正解はなく、正解は自分で見つける、という態度のことです。
教えるのをやめろ
こう申し上げると、読者の皆様は「何いってんだお前、合気道を教わりに行ってんじゃねえのかよ」とおっしゃるでしょう。
そのとおり、先生は技を教えなくてはいけません。
そして生徒は、教わったように技を再現しようと試み、その中で上達していくわけです。
でも、さっき先生が言った「教わった技なんか使えない」は、どういう意味なのでしょう。
自分が教えた技は、間違っていた、とでもいうのでしょうか。
いいえ、違います。
先生が教えたのは、あくまで合気道の技の「かたち」でしかありません。
教わる方は、それを血肉にしていかなければなりません。
そのためには、「盗む」という態度が必要なのです。
盗むとは、文字通り、観察し、考え、自分なりの仮説を持ち、それを試して、試行錯誤し、自分のものにすることです。
「盗む」という精神は、疑うことであり、自分の頭で考えることであり、真実を求める強い気持ちなのです。
「盗む」が足りない日本人
武道のあるべき精神の一つともいえる、「盗む」ですが、これは実社会にも応用できるのではないでしょうか。
僕らは物心ついたときから、「教わる」ことばっかりしてきました。
正解は一つしかないと刷り込まれ、答えを出すプロセスや考え方まで教わり、正解を答案に書き込み、先生に褒められ、志望校に合格し、ちゃんちゃんとなるのです。
サラリーマンも同じ、研修を受けさせられ、正解を覚え、人事にほめられ。出世してちゃんちゃん、です。
しかし学校で、会社で覚えさせられた「正解」は、果たして使えたのでしょうか。
もちろん、正解を書き込めば、社会でのごほうびはもらえますが、それはあくまで形式に過ぎません。
志望校の合格、会社での栄達は得られたかもしれません。
しかし、もっともっと大切な何かを、「教わりすぎた」僕らは失ってきたのではないでしょうか。
例えばきのうお話した、セブンの買収問題、答えは時価総額の比較、デューデリなどの教科書的な正解ではありません。
コンビニのグローバリゼーションの未来を、どう読むか、のほうが遥かに重要な視点ではないでしょうか。
しかし、我々はそういう訓練をまったく受けてきておらず、経済学の教科書の正解だけをテストに書いてきただけなんです。
そもそも、自分で考える姿勢があれば、買収提案などかかりませんよね。
教科書を捨て自分で考えろ
混迷の時代、求められているのは、「教わった正解」などではありません。
それは、ありきたりの正解に満足しない、「疑う精神」であり、「自分で考える姿勢」であり、「まったく違うアプローチからとらえる多様性」であり、「そこに真理を追い求める情熱」ではないでしょうか。
そして何よりも、武道でいう求道心、つまりそのことが好きでたまらない、ことが大事だと思います。
僕は最近、「お前は本当に合気道が好きなのか?」と自分に問うことが増えました。
野呂 一郎
清和大学教授