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U系新団体Gleatの先進的妥協

プロレスの大衆性は相撲流の”大雑把”

プロレスと格闘技では見せるものが違う。

プロレスで見せるものは白い、太い、肉だ。

もっと正直に言うと脂肪、といっていい。

格闘技で見せるものは締まった筋肉だ。

プロレスが見せるお客さんはおおらかな地方人だ、格闘技が見せるお客さんは神経質な都会人だ。この差は相撲とボクシングの差といってもいい。

力道山は「相撲もプロレスも、裸商売。変わりはせぬよ」と言ったと伝えられる。

この一言には、超一流ビジネスマンだった彼の類まれなセンスを示している。

要するに力道山は、プロレスと相撲を同じと考えていたのだ。

土俵に大男を上げて、くんずほぐれつを見て楽しむのが相撲。

プロレスも基本的には変わりがない。土俵がリングに変わっただけだ。ポイントは大きな身体に白い肌、そしてぽっちゃりだ。

技量はあまり重要ではない。裸の白い、ぽっちゃりした、大きな力士が組み合う、という“絵”があればいいのだ。

この裸の大男、ぽっちゃり、白い肌、組み合うという要素こそ、大衆に訴える究極の見せる要素なのである。この主要な要素からは、ゆったり、まったり、愛嬌、いい加減というこれまた大衆が好むサブファクターが出てくる。反則も愛嬌、いい加減という興行に欠かせない隠し味である。

力道山の慧眼

関脇まで上り詰めた力道山がプロレスに転じた経緯には様々な説があるが、私は、プロレスを金のなる木と見抜いた力道山の慧眼とみる。相撲という見せるカタチを踏襲しながら、スピードとパワーにダイナミズムを加えたプロレスが、大ブレイクしないわけがないと見抜いたのだ。

プロレス団体は今や都道府県に一つはあると言われている。大小取り混ぜて300団体ほどが、生き残っている事実こそ、プロレスの「リングに巨体、白い肌、ぽっちゃりが組み合うを見せること」が普遍性を持っていることの証明だろう。

ラッシャー木村こそ、この普遍性、大衆性の象徴なのである。アントニオ猪木に「腹の出てるレスラーはレスラーじゃない」とバカにされても、ラッシャー木村の身体は相撲取り、いや大衆好みだ。

そもそも木村は元力士であるから当然だ。ぽっちゃり、白い肌もいい。愛嬌もある。

1976年9月23日、新日本プロレス田園コロシアム大会で、突如リングに上がり「こんばんは」とやって満場の失笑を買った事件は、木村の人の良さ、言い換えればゆったりさ、ノンビリさを象徴している。言ってみれば相撲的な価値観を体中にみなぎらせているプロレスラーが、ラッシャー木村なのである。

Gleatの興亡を占う

7月1日、新団体Gleat(グレイト)が東京で旗揚げ興行を行った。満員御礼の大成功だ。

GleatはかつてのUWFをコンセプトとするプロレス団体だ。しかし、先行したU系団体と同じく地方興行はできないだろう。

U系団体は巨体、白い肌、ぽっちゃり、脂肪、という地域で好まれる大衆性がないからだ。組み打ちも、ない。キックとパンチが主体だからだ。反則という名のおふざけ、いや余裕もない。笑いも当然ない。これでは場末の興行は無理だろう。

しかし、GleatはプロレスとUWFをミックスした興行、というのがミソである。興行主体のリデットは、名うてのビジネスマンの集まりだ、最果ての地でも興行をやるつもりかもしれない。

今日も最後まで読んでくれてありがとう。

じゃあまた明日。

                             野呂 一郎

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