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アメリカのホテル王に日本人が救われた話

見ず知らずの人にも親切にすること。
今日はこの“積極性”だ。

日本とアメリカで、見ず知らずの人に、親切にされたことがある。それもとびっきりの親切を。

あんみつの話
この日本で受けた親切は、もう半世紀も前のこと、中学生の頃の話だ。

野球部の練習の後、僕は球友何人かと連れ立ってその東京・高円寺の甘味処にいた。あんみつを食べ終わって、友達とどちらからともなく「ああ、もう一杯食えたらなあ」とため息をついたんだ。そうしたら突然、横前方に座っていた年配の女性から、

「ご馳走してあげる!」

という声がかかった。

突然の降ってわいたような親切に、いやしい少年たちは舞い上がり、厚意に甘えたことは言うまでもない。

あの時のあんみつの味は、今でも忘れられない。

もちろんあんみつはとてつもなく美味しかった、しかし、それ以上に見知らぬ人が見知らぬ少年たちにごちそうしてくれた親切という衝撃が、その味を忘れられないものにしてくれたのだ。

普通に考えれば、子供とは言えはじめて偶然に見かけただけの赤の他人に、あんみつをふるまうなど、常軌を逸した行為かも知れない。しかし、その親切をもらった方は一生忘れない。それは常軌を逸したのではなく、純粋な無私の心から生まれた行為だったからではないか、いまそう考えるのだ。

ホテルの話
アメリカで受けた親切は、命を救われた話だ。

1988年の夏、アメリカ中西部ウィスコンシン州は60年ぶりの干ばつに見舞われていた。アメリカ人に日本語を教える準備の3ヶ月を終え、私は州都マジソンにある赴任先の大学の寮にいた。

気温は連日40度を超え、扇風機もクーラーもない部屋でもだえていた私に、大学の関係者が尋ねてきて「今からキミを近くのホテルに連れて行くよ」と言うのだ。

ある人の好意で無料ステイの提供だという。

その人は、秋から僕が教える予定の社会人向け日本語講座にエントリーしていて、日本から来たその日本語教師がこの干ばつの熱に煽られて死にそうだと聞いて、いても立ってもいられず、自分の経営するホテルの部屋を提供したい、と言ってきたのだという。

そのホテルは全米屈指のホテルチェーン、ハワード・ジョンソン(Howard Johnson Hotels)で、彼はその創業者だった。

僕があてがわれたのは最高級のスィートルーム、プール付きという豪華な部屋で、食事はルームサービスで何でも頼んでよいという。2週間毎日ステーキを食べ、プールで泳ぎすっかり元気になった私は、秋から無事日本語を教える仕事を元気に始めることができたのだ。

夏休み期間中で寮を世話する管理人も不在のなか、熱波が押し寄せるあの部屋にずっといたら、当時車もなかった僕はおそらく死んでいただろう。

この親切は命に関わったという意味で、まさに切実なありがたさと共に一生忘れない出来事になっている。

3番目の話は、僕が頂いた親切の話ではなく、親切の目撃談だ。

教会の話
1992年のことだから、もう30年も前の話だ。2年半の日本語教師の仕事を終え、同時にウィスコンシン州のビジネススクールを卒業した僕は、カリフォルニア州ロスアンゼルスにいた。

日本に帰る前にアメリカ企業で働きたい、その願いをかなえるためだった。

アメリカではMBAの学位をとると、1年間ビザなしで働けるプラクティカル・トレーニングというシステムがあり、それを利用してあるコンサルティング会社に就職の機会を得たのだ。

会社はロサンゼルスのダウンタウン(中心地)高層ビルの40階にあった。僕のデスクからははるか階下を見下ろすことができた。朝9時に窓の下を見ると、いつも同じ光景が目に飛び込んでくる。

それは大きな教会の前に長い人の列が続くようすだった。教会が毎日ホームレスのために炊き出しを行っているのだ。人々は誰も気に留めるふうでもなく、足早にその前を去っていく。全米どこかしこにもある日常の風景だから、なのかも知れない。

僕は毎朝その光景を見るにつけ、アメリカという国はいつもどこかで善意が行われているのだとあらためて知り、この国の大きさに打ちひしがれる思いがした。

3つの出来事をいま思い出すにつけ、僕も及ばずながら残りの人生、見知らぬ人に親切にできるよう心がけよう、そう思いを新たにした。

今日も読んでくれてありがとう。

明日また会おう。

野呂一郎

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