プロレス&マーケティング第103戦 プロレスの勝負論とは何か。(一部改定)
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:昨日、カール・ゴッチの勝負論を紹介したが、考えてみればゴッチはWWEではない。よくも悪くもプロレスを「強いものが勝つ格闘技」と狭義にとらえている。では、「プロレスの勝負論」とはなにか。その答えは「観客至上主義」である。しかし、それは観客に媚びることではなかった。
カール・ゴッチの勝負論が通じないプロレス界
昨日の第101戦で、マーケティングの要諦は勝負論だ、と申し上げました。
そしてプロレスの神様カール・ゴッチのこの言葉を紹介しました。
ただ、この言葉は格闘技者もしくは武道家カール・ゴッチのことばである、と受け止めるべきでしょう。
カール・ゴッチのこんなエピソードがあります。
真樹日佐夫氏の名作「プロレス悪役物語」には、「悲劇の弾丸児」と題した意外にもカール・ゴッチの回があり、こんな描写があるのです。
あるアメリカの試合会場で、中年のおじさんがポップコーンを頬張ろうととしています。
カール・ゴッチの試合が始まりました。
ゴングが鳴るやいなや、カール・ゴッチは瞬時に相手の背後に回り、ジャーマンスープレックス一閃、フォールを奪ったのです。
くだんのおじさんは頭を抱え、そしてカール・ゴッチに罵声を浴びせるのです。
「やいやい、ポップコーンを食う時間もないじゃねえか!ちったあ、客を楽しませろ!」。
カール・ゴッチは場内にこだまする共感に背を向け、こうつぶやきながら花道を後にします。
「俺は間違ってはいない。プロレスは全力で相手を潰しにかかる競技のはずだ。最短時間で相手を仕留めて何が悪い」。
この妥協なきスタイルを崩さなかったがゆえに、アメリカマットでは冷や飯を食い、「無冠の帝王」の名をほしいままにしたのでした。
つまり、カール・ゴッチの勝負論は、プロレス界では通用しなかったのです。
プロレスにおける勝負論
では、プロレスにおける勝負論とは一体何でしょうか。
カール・ゴッチの勝負論は、繰り返しますが、こうでした。
「その時その時の攻防において、最も効果的な技を出すことのみを考え、それを実行するだけでいいのだ」(カール・ゴッチ)
プロレスの勝負論は、これをもじって、こうです。
なんだ、じゃあ、プロレスって勝負論が存在しないじゃないか。
読者のあなたはそうおっしゃいますよね。
有り体に言うとそのとおりです。
「観客論」ありきで、勝負論はその中に狭苦しそうにたたずんでいる、そんな感じです。
お客さんが欲しい(エンタテイメントな)戦い、これが「観客論」ですが、後で出てきますが、アントニオ猪木は観客論を否定しました。
では、カール・ゴッチの勝負論か、というと、そうではないのです。
観客論=マーケティングを超えろ
ポイントは「最も観客を喜ばせる技」というくだりです。
観客とは、試合場でレスラーの試合を見ている人々であり、テレビで試合を視聴する何千万の大衆のことです。
観客の属性、つまり何に喜ぶのか、ということは大雑把にしかわかりません。
例えばアメリカのWWEを見に来る観客は、大げさな演出を見に来ています。
昭和の新日本プロレスを見に来た観客は、真剣勝負を見に来ていました。
今のDDTの両国大会を見に来ている観客は、新日本プロレス的なストロングスタイルを見に来ているわけではなく、「DDT」という世界観を見に来ています。
要するに、プロレスにおける観客とは、国によっても、時代によっても、団体によっても違うのです。
そして、マッチメイクによっては、そういった括りが全くなくなってしまうこともあるのです。
つまり、観客とは、その時にレスラーが感じた存在であり、レスラーはその時自分が感じた観客が求めるものに応じる存在なのです。
アントニオ猪木の金言とされる「客に媚びるな!」とは、そういう意味なのです。
マーケティング的に、アメリカの観客はこうだ、日本の観客はこうだ、新日本プロレスの観客はこうだ、DDTの観客はこうだ、と市場の属性を計算して、お客さんの好みに合わせたファイトをすることが、「最も観客を喜ばせる技」であるかどうかはわからないのです。
「観客を喜ばせる」を越えた猪木のプロレス
プロレスは生き物であり、観客もそうです。
だから、「最も観客を喜ばす技」というのは、五感とセンスでその時の空気と観客が求めるものを読んで、レスラーが繰り出す動き、なのです。
つまり、一言で言えば、観客を最も喜ばす技とは、アドリブのことなのです。
WWEの予定調和は確かに芸術の域ですから、それはそれで「最も観客を喜ばせる技」といえるでしょう。
しかし、アントニオ猪木が見せた、予定調和をぶっ壊す数々のファイトも「最も観客を喜ばせる技」なのです。
あなたは言いますよね。
「だから、勝負論はどこ行ったんだ?」
プロレスの勝負論はあくまで、「観客を喜ばす」という文脈の中でしか存在しません。
例えば、新日本プロレスの旗揚げ戦での、メインイベント「猪木vsカール・ゴッチ」において、アントニオ猪木はどうやって「観客を喜ばそうとした」のでしょう?
それは、観客を喜ばすことなど、微塵も考えていなかった、というのが正解です。
観客を喜ばすのではなくて、怒らせようとしたのです。
具体的に言うと、観客の古い、間違ったプロレス観というものにケンカを売ったのです。
それまで日本のプロレスファンは、「結局はエースが勝って大団円」という予定調和を望んでいました。
それがプロレスだと思っていたのです。
しかし、猪木はカール・ゴッチとの記念すべき旗揚げ戦で、フォール負けを喫しました。
「強いものが勝つのがプロレス」という新しい考え方が、日本中に広がった嚆矢となったのが、この試合でした。
1972年3月6日、大田区体育館で、日本のプロレスは、力道山以来のプロレスに別れを告げました。
これまでの「客にこびたマーケティングプロレス」が消滅、個々のレスラーが理想のプロレスを追求する動きが登場するのです。
ある種のイデオロギー闘争が起きたわけですが、いまに至るまでその覇権を握っているのが、「ストロングスタイル」です。
プロレスの勝負論とは、あくまで勝負を主体せず、観客が主役の「観客論」です。
しかし、それは時として観客を無視する、カール・ゴッチ流のガチンコ真剣勝負です。
時として、アントニオ猪木流の「見せる真剣勝負」であり、三沢光晴の「戦略的なパズルを解くようなプロレス」であり、前田日明の「道場プロレス」であり、男色ディーノの真剣にふざける「反・ストロングスタイルプロレス」をも包含します。
勝つことがすべて、という純粋にして単純な勝負論はプロレスには存在しません。
プロレスの勝負論とは、勝負も含む、真剣勝負から男色までの激しい振り幅の、カオスにして奥深い哲学だったのです。
野呂 一郎
清和大学教授