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野呂エイシロウができるまで。(プロフィール)

野呂エイシロウ
放送作家 戦略的PRコンサルタント

○短めのプロフィール

野呂エイシロウ のろえいしろう
放送作家なので、この名前はペンネームである。エイシロウも元々は漢字だったのだが、番組のエンドロールで見にくいので、カタカタに変更した。

1967年、昭和42年、愛知県に生まれる。愛知工業大学在籍中に、学生起業家として活躍後、雑誌編集者に。『天才・たけしの元気出るテレビ』で放送作家としての活動を開始し、『ザ!鉄腕!DASH!!』『特命リサーチ200X』『奇跡体験!アンビリバボー』『ズームイン!! SUPER』といった数々の人気番組を手掛ける。30歳のとき、大手広告代理店に誘われたのがきっかけで戦略的PRコンサルタントへ転身。TV番組をヒットさせるノウハウを企業PRに生かすなど独自の手腕を発揮。これまでに、大手広告代理店をはじめ、150社以上と契約。自動車会社、家電メーカー、飲食チェーン店、飲料メーカー、学習塾、金融など、分野は多岐に渡る。『考えなくてもうまくいく人の習慣』(ワニブックス)、『入社1年目から差がついていた! 行動が早い人の仕事と生活の習慣』(すばる舎)、『「話のおもしろい人」の法則』(アスコム)、『プレスリリースはラブレター テレビを完全攻略する戦略的PR術』(万来舎)など、著書多数。
『『副業は、自己PRがすべて。 「稼ぐ人」が実践する成功戦略』(2021年:プレジデント社)


●Wikipediaは、ほぼあってます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%91%82%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%82%A6


【野呂エイシロウができるまで】
誕生日は、ドラえもんと誕生日が一緒。
格闘家の吉田秀彦氏とは、年が1年違いの誕生日、生まれた病院、保育園、小学校が一緒。

父親はサラリーマン。
母親は専業主婦のごくごく普通の家庭生まれる。
愛知県大府市生まれの岐阜県多治見市育ち。(小学校3年生の終わりに転校)

祖父が絵描きだったため、
親戚一同からは、同じ物書きということから「お前の守護霊はおじいちゃんだから」とよく言われる。

以前、一度ある霊能者と言われている人にも同様のことを言われてちょっとだけ信じているが、実際に、祖父の幽霊が枕元に立ったのを一度も見たことがない。

某番組の下取りで、米国の有名な超能力者(透視者)と面会した時、
生年月日などを詳細を伝えにも関わらず
「あなたは、糖尿病に気をつけなさい」
と言われ、それ以降超能力者を信じてはいない。そんなことは超能力者に言われなくても知っている。

一度、メンタリストのDIGOさんと自由が丘出会った時、
「スプーン曲げは物理だから」と言われて、習ったとおりにやったらスプーンが曲がって大感動をする。その一方で、スプーン曲げが超能力でないことを知ってがっかりする。

●2歳の頃バングラディッシュ(旧東パキスタン)で過ごす。
幼少の頃父の仕事の関係でバングラディッシュ(当時の東パキスタン)に一年滞在。

滞在中にバナナが喉につまり死にかける。
母の手を尽くすが、酸欠で真っ青になり、目が黄色くなって諦めたらしいが、
その後、しゃっくりをして奇跡的に生還。
母は、息子(ボク)の頭が悪いのは、その時の酸欠が原因と未だに悔やんでいる。
特に記憶力が悪い。

小学2年生の時、九九が覚えられなくて担任の河合先生にこっぴどく怒られる。(大府小学校)

●放送部へ
放送との出会いは、小学校4年生の時。(転校後の養正小学校)
運動会練習の際、仮設テントの中で、行進のレコードをかけている可愛い下級生のK子嬢をみて

「あの役割はなんだ?」と疑問に思ったのが始まり。

当時、運動会の練習が大嫌いだった。
自分たちのための運動会なのに練習する意味が分からなかった。
あと、右向け右とか前ならえとか、整列!とか軍隊がすることを学校教育に入れるのが分からなかった。

ちなみに組体操も何の健康になるのかが分からなく担任に訪ねたが明快な回答がなかった。

放送部の、Kさんは、結局大学卒業後、大手自動車関連の商社に就職。
その後、自動車会社の方と結婚したのを風の噂に聞いた。

以降小学、中学3年卒業まで放送部。
朝の放送、お昼の給食の時間の放送などを担当。
放送部の顧問の先生の名前は忘れたが、目をパチパチする先生で、
「パチクリ」とボクは呼んでいた。
たしか技術の先生だった。

中学生の頃、お昼の放送でかけていいレコードの楽曲の規則がうるさかった。クラッシックが中心だった。
ある日パチクリに「オーケストラはかけてもいいんですよね?」と念を押し、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「ライディーン」をかけて、滅茶苦茶怒られた。

パチクリが出張などで休みの日は、適当なレコードをかけていた。

今となっては時効だが、放送室でレコードをカセットテープにダビングをして、友人から200円づつもらっていた。
月に2000円ほど荒稼ぎをしていた。

その後、放送部の副部長に就任。
本当は部長になりたかったが、選挙でU君に負ける。
U君は、顔も良かった。
「人は外見」ということを痛感させられる。
中学3年生の時、運動会の放送で、当時プロレス中継で大人気の古舘伊知郎さんの真似をして、「あの関ヶ原の戦いからおよそ380年!」という過激な放送をして、「うるさい!」っと顧問のパチクリに怒られる。

また、ビートたけしさんが大好きで、お昼の放送などで「コマネチ!」「冗談じゃねえよ〜」「赤信号皆で渡れば怖くない」などとモノマネをしていて、顧問の先生に叱られる。マイクで話すのを停められる。

●恋愛の話
初恋は、小学校4年生の時。
その相手とは中学生の時、席が隣同士になり運命を感じるが、彼女の成績が高すぎてその後も相手にされず。

●野呂がメガネを掛けるきっかけ
中学1年生の時のこと。初恋の相手がある日、女子同士で話しているのを小耳に挟む。
「眼鏡をかけた人が好き」と。当時僕の視力は、両方とも1.5だったが、メガネを掛けるために嘘の申告をして、0.4と0.1に。無理やりメガネを買ってもらい、めまいをしながらかける日々。
(詳細は、書籍「終わらす技術」に掲載)

中学1年生の時、その初恋の女の子が漫画「キャンディキャンディ」(いがらしゆみこ著)の登場人物のテリーが好きだということはわかり懸命に漫画を読む。

テリーが、ブロードウェイで活躍する俳優だとわかったので、彼女の隣の席で懸命にシェイクスピアを読む。

おかげさまでコントが書けるように。
ちなみにその初恋の女性は頭脳明晰で、僕は一度も彼女の成績を抜くことができなかった。もちろん告白もできなかったし、恋も始まらなかった。

●深夜ラジオとの出会い。
中学1年生時、中島みゆきさんのオールナイトニッポンにはまる。(月曜日)特に好きだったのは「ひとり上手」のコーナー。
以降、毎日朝5時まで聴き、学校では熟睡の日々。
おかげで成績が下る。

「ポチ」と呼ばれる人がスタジオにいた。あとから気がつくが、この方が中島みゆきさんのオールナイトニッポンの放送作家の寺崎要さんだった。後に一度だけ、フジテレビの番組でご一緒することになり大感動する。

母親からもらっていた小遣いの殆どは投稿と当時は流行していた音楽番組「ザ・ベストテン」のリクエストのハガキに消えていた。河合奈保子さんのリクエストはがきに燃えていた。

参考書はもちろん「ハイトップ」(引用 twitterより)。彼女が広告に出ているだけで全科目を購入。

オールナイトニッポン以外にも
岐阜放送「ヤングスタジオ1431」
東海ラジオ「ミッドナイト東海」
毎日放送「ヤングタウン」(河合奈保子、嘉門達夫さん)
文化放送「ミスDJ」「さだまさしのセイヤング」
などにはがき送りまくり。 
自称ハガキ職人だが、さほど読まれたわけではない。

ちなみに河合奈保子さんと中島みゆきさんのファンクラブに所属したことがある。

●人生に大きな影響を与えたNHKのYOU
高校1年生の時(1982年・昭和57年)、NHKのの教育テレビでYOUという番組を見始める。大阪制作よりも、糸井重里さんや荻野目洋子さん、坂本龍一さんなどクリエイターが登場して「こんな生き方もあるんだ」とびっくりする。

テーマは坂本龍一さんだった。

https://www.youtube.com/watch?v=WglFy8O-A2g

エンディングテーマ

YMOも大好きだったが、坂本龍一さんも大好きであった。

●放送作家という職業との出会い
高校2年生の時、
雑誌「GORO」で秋元康さんのインタビューで放送作家という職業を知る。
「誰でもなれる」
「学歴不要」
「いい加減な作家」
「女性にモテる」
〜的なことが書いてあった記事だった。
すぐにファンレターを、秋元康さんのオフィスに送る。すつと返事が来た。

なんとなく放送作家になりたいな〜ッと思ったのが、

「天才たけしの元気が出るテレビ」、「夕やけニャンニャン」「オレたちひょうきん族」などテレビ番組の見過ぎで大学受験失敗。

金沢の大学に現役で受かるが、「寒い」「暗い」の理由で入学式の日に退学を決意。(正式には休学)

地元に帰り河合塾へ通う。
その最中に中島みゆきさんのオールナイトニッポンが終了。最終日に有楽町のニッポン放送へ行ったらなんと2000人もの同胞がいることにびっくり。最後の曲「白鳥の声が聞こえる」を歌いながら号泣する。

東京の大学でチャラチャラしたかったのだが、受からず地元愛知で暗い大学生活を送る。(二浪の末、地味に工学部)

●大学一年生の時、コンピューターに出会う。
コンピューターに出会う。
初めて買ったコンピューターは、NECの98NOTE。
その後アップルに出会いすっかり信者へ。

大学2年生の時、雑誌「DIME」の募集をみて学生企画集団「メルブレインズ」に参画。企画の面白さに気がつく。これがその後の人生を大きくかえる。

三菱電機の学生向け家電や
DCカードの学生向けクレジットカードなどの企画立案に携わる。
久保田達也氏などコンセプターに憧れ面会に行く、

同時に学生時代からリクルートの「Being」「とらばーゆ」に連載などを持つ。

借金をしてアップルⅡciを購入し広告代理店から引き受けた企画書制作の仕事で年収がサラリーマン並みに。
おかげで学生時代から携帯電話を片手に仕事をしていた。
余談だが、当時に比べたら今のスマホの価格は圧倒的に安い。当時は毎月10万円近い電話代金を支払っていた。

大学でコンピューターを学んだため、オフィス用コンピューターのソフト開発会社の就職が内定。しかし、マスコミが面白そうと、地元名古屋の出版社へ就職。

学生時代からCBCラジオで、レギュラー番組を持っていた。

◎秋元康さんとの出会い

26歳の時、日本テレビの「天才たけしの元気が出るテレビ」の放送作家予備校(公募)に応募。毎日、10個の企画を1ヶ月間おくりつけて予選通過。二十数名に選ばれる。その後、放送作家デビュー。残念ながら、その様子は放送されず。

以降、「鉄腕DASH」「特命リサーチ200X」「奇跡体験アンビリバボー」などを構成。運がいいだけである。

放送作家をはじめた頃、実力が全然話にならず秋元康さんの放送作家通信講座で懸命に学ぶ。ご本人にあったときにその話をしたら超ビックリしながらも「おい、あの講座で本当に放送作家になった人いるぞ!」とスタッフに言われた。

ゴールデン番組を次々に構成していて順風万端な人生を送っていたが、演出家と口論になり「鉄腕DASH!!」「特命リサーチ200X」を辞めて失望の日々。ただし訳あって特命リサーチにはその後復帰。

●日本テレビ ズームインスーパー
NTV「ズームインスーパー」の番組に携わっている時、
広報さんやPR会社さんの売り込みに疑問をもつ。
2001年10月〜

●戦略的PRコンサルタント開始
自動車番組の構成をしている時、
縁あって自動車会社のコンサルタントを開始。

その後、米国企業マッチ・ドットコムで、婚活ブームに携わる。この書籍から「婚活」の様々なヒントを得る。(2008年)

テレビ番組も、CMやPRをヒットさせることも一緒。
放送作家はヒットするためのコンサルタント業だ!と、戦略的PRコンサルタントに。

以降、マッチ・ドットコム、ギルト・グループ、GROUPON、Expedia、ビズリーチ、ライフネット生命、ソフトバンクモバイルなどの広報戦略に携わる。

2009年にこの本を発行

現在紙の本は絶版。紙の本は中古のみです。あとは、デジタルのキンドル版です。一時期この本が、10万円まで値上がっていたのでデジタル版にして値段を下げることができました。

広報に関しては全くの素人だったので、ディビットオグルビーの書籍を読んで学ぶ。これがその後の成功に大きく関わる。

プレスリリースの本を書いているにもかかわらず、
プレスリリースに頼らず、企画書と経営者のプロフィールでの売り込みに成功。これまで約150社以上に携わる。

2022年1月現在、外資系企業、日本企業26社のコンサルを行う。
月に1度から2度ほどクライアントを伺う。
PR会社とは違うので、戦略立案がメインのコンサルタント業。

●ラジオ番組
渋谷のラジオ「渋谷の奥さんと」レギュラー。(月曜10時)
https://note.mu/shiburadi/m/m80cd4735efbf


●著書
同時に書籍も多数。
「テレビで売り上げ100倍にする私の方法」(講談社)
「プレスリリースはラブレター」(万来舎)
「話の面白い人の法則」(アスコム出版)
など。

最新著書

連絡先
https://form.run/@noro

野呂エイシロウウキペディア。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%91%82%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%82%A6
(多少の間違いあり。幾度も訂正)

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