対称性鑑定士

 対称性鑑定士の講義のため、電車を乗り継いで知らない街までやってきた。会場は高架下となっている。それも、狭く長い通路をどうにか通ってたどり着く場所のようだ。
 黒ずんだエアコンの室外機やボロボロのモップが放置された通路を抜けると、急ごしらえらしい張りぼての講義会場にたどり着いた。いびつな楔型をした狭い部屋の中に、木箱(椅子だろうか)と長机が雑に並べられただけの質素な会場だ。前方の壁には薄汚れた白板がかけられている。本当にここで合っているのだろうか。対称性鑑定士の講義会場とは思えない。何度か確認したが、どうやらここで間違いないようだ。しぶしぶ、近くの箱に腰を掛ける。上からわずかに駅の構内放送が聞こえてきた。
 しばらくすると僕と同じ、生徒と思しき人たちが続々現れ、瞬く間に席が埋まっていった。
 どこからともなく痩身の男が入ってくる。伸びた髪で頭全体がおおわれており、顔の向きが分からない。教卓の後ろに立ち、僕たちの方を向いたことから講師だとわかる。
「回転担当の者です」
 小声でよくわからない自己紹介をした後、早速白板に何かを書きながら説明を始めた。ただでさえ声が小さいのに後ろを向いたせいでその声は最早僕たちには届かなかった。
 真上を電車が通過していく。講義室全体が激しく揺れ始める。あちこちで筆記用具の落ちる音がした。天井からは砂ぼこりが降ってくる。何人かがテキストを傘にしてやり過ごしている。講師の様子に変わりはなかった。彼が何を言っているか、最前列の生徒にだってわからないだろう。ようやく揺れが収まったころには、席はめちゃくちゃだった。講師の頭には埃の山ができていた。生徒の失笑が漏れる。
 あれだけの揺れにも関わらず、白板上の文字に乱れはない。生徒たちは姿勢を正し、またメモを始める。帯状の模様を写したところで何にもならないだろうに。僕はこの講義に来たことを若干後悔していた。数人の生徒は早くも飽きてきたのか、でろんと机に突っ伏している。

 講師の独り言は続くが、たまに声が高くなった時しか聞き取れない。「弁、蝶番、ダイオード、すべて非対称性の源です」「容量はトサカ式で計測します」
 生徒の大半はすでにスライムのように融け始めていた。灰色のゲルが皮膚の表面からにじみ出て、体の形が歪に歪んでいる。講師はずっと白板に向かって説明しているものだから、生徒の現状に気づいていない。あるいは気づいた上で放置しているのか。
 また列車が通過する。激しい揺れでペンが床に落ちた。天井から砂が降ってくると同時に、スライム化した生徒の一部がべしゃりと音を立てて床に崩れた。講師が何か言うが、まったく聞き取れない。講師の頭の上の埃の山はさらに高くなっていた。
 かろうじて人の形を保っていた、僕の前の席の生徒は、徐々にその形と色を変え、赤銅色の巨大な円錐に変身した。前が見えなくなったので、僕は箱ごと右に移動する。直後にその前方の生徒が青い金属の円錐に変わってしまったので、また右に移動する。変身、右。変身、右。とうとう僕は部屋の右端にたどり着いた。
 生徒の大半が、スライムか、光沢のある円錐になってしまった。講師は頭の山を気にもせず、白板を文字と模様で埋め尽くすことに専念している。周囲を見渡すと、僕のほかにもう二人、人間が残っていた。二人とも、ペンを持たずに前を向いているだけだ。案外それが懸命かもしれない。
 また、講義室が小刻みに震え始めた。僕はうんざりした気持ちで目を閉じる。天井が軋んで、砂ぼこりを大量に落とした。僕の頭の上にも埃が降り積もる。講師の埃は天井に届きそうなほど高い。揺れに合わせて鉛筆が転がり、床のスライムもゆるゆると動く。

 まだ電車が通過しきらないうちに、さらに揺れが大きくなり始めた。直感的に、もう一本電車が走ってくるのだ、とわかる。そんな衝撃にこの張りぼての講義室は耐えられるのか。無意識に姿勢を低くしていた。
 大きな衝撃が体の芯を叩く。視界が根元から回転した。どうなっているのか理解する前に、堆い埃の山が倒れていく姿が見えた。
 「あ」誰の声かはわからない。三人全員のものだったかもしれない。僕はそばにあった円錐にしがみつくのが精いっぱいだった。
 崩れる、と何度も心の中で叫んだ。実際に叫んでいたかもしれない。
 長い、長い揺れが収まり、僕は恐る恐る講師を見る。頭の上にたたえていた埃の山はきれいになくなっている。いつの間にか僕たちの方に向き直り、何かを話していた。相変わらず頭は髪に覆われているので体の向きで判断するほかない。耳鳴りで全く聞き取れないが、講義の終了らしいということは分かる。
 ためていた息を吐きだす。非常に疲れた。円錐から手を放し木箱に座りなおす。他の二人の生徒は帰り支度を始めた。講師は話し終えると、白板の下をくぐってどこかへ消えた。
 あまりにも無責任な結果に僕は唖然とした。あとに残されたのは、スライムまみれの床、光沢のある円錐の数々、真っ黒になった白板。
 来るんじゃなかった。スライムに足を取られながら、講義室を出る。

 その後、僕は対照性鑑定士として就職した。結局あの時の講義は何の役にも立っていない。そもそも内容が分からなかったのだから当然だ。
 先輩にこの奇妙な出来事を話したところ、訳知り顔で微妙な反応を返された。
「業種が業種だから」
 その言葉の意味を詳しく聞こうかとも思ったが、正直、もう関わりたくなかったので忘れることにした。

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