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23 蚊に刺されて


 目を覚ますなり身体をギチギチと痛めつけ鉛のように重くする高熱の症状に、気を失うように眠ったり、また反転して起きたりと繰り返す白髪の少年は今再び瞼をもちあげ、曇った瞳で天井を眺めていた。その風景も周囲の人らの彼を慮る声も、病人には届いていない様子である。熱は抵抗を作る。ここでもまた高熱のクァシンと周囲の世界とで、音も光も意思も抵抗によってすんなり行き交うことはなかった。

「これは、ふくれ病って言ってね、このままじゃあクァシンちゃん、三日後に破裂しちゃうよ。それで中から大量の蚊が出るんだ。……ふくれ蚊はいなくなったはずだけどねえ。まだ生き残りがいたんだね」

「ここがいちばん赤い」

「蚊に刺されたところだね」

 アイがクァシンの足首から手を離したの当時に、タニシの女神は本棚の古びた書の背に触れた。『絶賛絶滅中虫』と書かれたひどく毛ば立った深緑の本を抜き出して、後半部分を行きつ戻りつする。見つけたページで、机の上に広げた。

「特効薬はあるのよ」

 文字が読めないアイが覗き込んでも何にもならないのだが、一応机の上に身を乗り出して、拡大された蚊の絵と、枠で区切られた図鑑の編集を見る。

「んー」とタニシの女神は指を文字から文字へと滑らせて、ある箇所で止めた。「銅水。そう、そう。銅水が必要ね」

「でも、どうやって銅水を手に入れたらいいの」

「そういう話は、森の住人に聞くといいかもしれないわ。里山をつくって暮らしてる」ワルワルの女神が髪をかき上げて、ため息混じりに言う。
「アイ、気をつけてね」
 内ポケットから雑記帳を取り出して中を確認した。

「うん」

 アイが去った後、部屋には混ざりきらない沈黙だけが残った。ワールドザワールドの女神は手足末端の微妙に膨張しはじめている少年への心配半分に、重なった仕事のことも同時に考えている。タニシの女神はクァシンの病状の確認と記録と引き継ぎの用意。川を越え頼りなく肩を揃えてやって来たクァシンと一緒に住むおじいさんとおばあさんはさっきからずっと心落ち着かない様子で、彼を見たり彼女を見たりした。
 タニシの女神の部屋はかつてなく暗かった。家の前を通り過ぎる村娘らの賑やかな会話がより一層その暗澹たる様を際立たせた。暗黙のなかついにワルワルの女神が口を開くまで、誰も何も言わないままだった。

「もうすぐ井戸の女神が迎えに来るわ。それで私は一旦、ハチケ村に行くからあとは頼むね」

 おじいさんとおばあさんは不安そうな目を彼女に向けるが、ワルワルの女神は彼らを一瞥して、

「大丈夫よ、対処法がわかっているのだから。おじいさんとおばあさんも、今夜はぐっすり家で休むのよ。あまり気を張り詰めすぎるとあなたたちの体調にも良くないわ」

 まるで高校生相手に語るかのような口調で諭した。
 間も無く井戸の女神が扉を蹴り破って入ってきた。



 アイは里山に到着した。一本道を抜けた先には10円ハゲのような土地があって、そこに茶色いニキビができるみたいに見える簡素な家がポツポツとできていた。相変わらず周囲には照葉樹の壁が目玉をぎょろぎょろ上に向けて揺れている。アイの乗るトマホークと名付けた冷たいロバの足音がむしゃむしゃと草葉を踏んですすんだ。

「この村の人たちに聞いたらいいんだろうか?」

 アイは順番に現れる家々に視線を向けた。人の姿は見えない。まるで閑散としている。

「てゆーか、ちいさすぎないか」

 抑揚のないこもった低い声でトマホークが言う。目もトロンとしていれば、声もトロンとしているのだ。

「ちょっと見てみる」

 アイが言うと、トマホークは足を止めた。アイはロバの背から降りて、屋根がアイの首元までしかない、小さな家の入り口を覗いた。

「すみませっ……」

 アイは走ってトマホークの元へ戻った。
 中では小さな女性が裸で体を拭いていたのだった。

「すみませーん。誰かー、銅水について知りたいんですけどぉー」

 いやに遠慮がちな声音で、この森の大気の下方を潜らせるようにして、アイは聞いて回った。時折、身長六十センチほどの若い男の人や、それより少し小さいおばさんなどが顔をのぞかせることがあった。

「ワールドザワールドのぉ女神に、頼まれてやってることを言ったらぁ」

 トマホークが興味なさげな声で提案する。
 アイはその通りにした。すると、顔を出す人の数は増えたけれど、近寄ってくるものはやはりなかった。

「みんなのこと、なんて呼んだらいい?」

 顔をぐるぐる回して聞く。幽霊街のスピーカーになっている気分だった。

「アワトルアワだってば」

 すぐ後ろで聞こえた。
 アイが振り返ると、トマホークの尻の後ろに頭の上に枡を乗せた青年が立っていた。その青年は、トマホークに蹴飛ばされ、家を二つ越えてリュウノヒゲの草むらに埋まった。

「なんてことするんだ」

「しょうがないさぁ、だって本能なのだからぁ」

 とベロをダラダラとこぼしながら言った。
 青年の元へと駆け寄ろうと、トマホークの背から飛び降りたアイのそばに今度は少女が立っていて、アイのスボンの膝のところを摘んで、

「アワトルアワって言ったよ」

 と言った。

「ありがとう、でも、彼の様子を見に行かないと」

「そうでしょ、別に見に行かないでって言ってないもの」

「う……うん」

 アイが見たところ、青年に傷も骨折もなさそうだった。

「運が良かったと言うことにしておくべきなんだろ、きっと」

 と青年は言った。

「ねえ、君の名前はなんて言うの?」

「アワトマフトだってば」

「アワトマフト君だね」

「マフトって言うべきだ」

「マフトくんでいいんだね、僕たち銅水を探しにきたんだ。銅水って知らない」

「金属の洞窟があるんだよ。そんなことも知らないの」

 さっきの少女が背中の方で言った。振り向くと、少女が真剣な眼差しでアイを見つめている。口調こそ人を食ったようなものだが、気持ちは別らしい。おそらく文法の問題である。

「それはどこにあるの」

「九六山脈の洞穴の奥にある部屋だって言ったよね」

「そうなんだ。その九六山脈まではどうやって行けばいいの」

「僕が案内してやる以外になにがあるんだよ」

 今度はマフトが言った。彼は同時に、少女の方を向いていたアイの背中に足をかけて、肩の方まで登ってきた。

「案内してくれるんだね、ありがとう」

 アイはアワトルアワのみんなに手を振って村を出た。


「それが九六山脈なことに、一体いつになったら気づくんだ?」

 道中ずっとアイの首に跨って異様に甲高い音の口笛を吹いていたマフトは、髪の毛を掴んでいた右手を離して、空に描かれた心電図に見えるくらい自由にモリモリ盛り上がっている黒い山を指差した。

「その右から2番目の山に、銅水があるんだろ、どうせ」

「そうなんだ。案内ありがとうね」

 アイにはその山に見覚えがあり、心に寒風がぴゅっと吹いた。そこにマフトの不可思議な口笛のメロディが調和して、いたく居心地の悪い気分になった。その山はかつてアイが人産みの母から預かった赤子を連れて隠れた場所で、今アイがここへきた動機と気分は前回のそれと、折り紙とエリンギくらい違うのに、その偉大な景色だけは有名な絵画みたく変わらなかった。
 あの時は気づかなかったけれど、こんなに遠くまで来ていたんだとも感じる。

 トマホークが山の麓で緑色のゲロを吐いたので、そこからは自分の足で歩くことにした。

「ここ、気分が悪い。俺のぉ、体調管理のせいじゃないぜ、だってぇ、いつもと同じ草と川の水しか飲んでいないのだから」

 トマホークは空惚そらっとぼけるようにくちびるを上向けて言うのだった。確かにいつしか空にはバームクーヘンくらい分厚い雲が増え、風は切っ先が尖っていて、決していい気分とは言えなかった。

 アイは、口を横にひっぱって歯を食いしばって「いーーーーー」と言い続けているマフトを肩にのせて山をめぐる坂道を登り始めた。「いー」に飽きると今度は吉田拓郎の「人生を語らず」を歌い始めた。

 小石を蹴って、転がった先に追いつくとまた蹴って、前へ前へ進んでゆく。

「ここだろ、ここ。どこ見てんだよ」

 と言われてアイは顔を上げた。そこには洞窟があった。

「この中にあるの?」

「普通に考えてそうなのに、そんなこともわからないのか」

「ありがとう。……行ってみよう」

「すまんが、俺は入らない。いいや、入れないに決まってる。入ってはいけない場所だからだ、それくらい考えてくれ」

「わかった。下のトマホークのところへ先に帰る? そうしてもらうとありがたいんだけど。体調悪そうだったから」

「そうしないって言ってないだろ」

「ありがとう」

 アイは笑った。

「じゃあな。わざわざ俺に気をつけろって言わせるんじゃねぇぞ」

「うん」

 ついにアイは洞窟に入った。赤子を連れて入った時は山も違ったし、きっと方角も構造も違ったのだろう、少し陽が入ってきていて、中に入ってもそれほど暗くはなかったはずだ。しかしこの洞窟は、少し上がり気味にもなっており、三歩進むと足元が見えなくなるほどの暗闇になった。

 アイのそばにつきまとって外から入ってくる空気が一瞬で冷たくなっている。先も見えなければ、もう壁も見えない。両手を突き出して、アイはずんずん進んでいった。

 どれだけ進んだのかも、これからどのくらい歩くべきなのかも分からず、ただ言葉通りの闇雲にアイはデコボコした地面を注意深く且つ大胆に歩きながら、水たまりも、岩肌のとげも越えて進んだ。自分の息が耳元で聞こえる。自分の足音はずっと遠くから聞こえた。

 ようやく闇の向こうに、ぽつりと光が見えた。

 喜んだアイは、走り出して、転んで、起き上がって、その光にたどり着いた。それはタッチパネルだった。光る板を初めて見たアイはそれを火かと思い怖がってなかなか触れられなかったが、息を吹いたり小石をぶつけてみた末にやっと意を決して指で触れてみた。すると画面の奥からスッと番号が浮かんできて3×3と0が四角形に並んだ。すぐ隣の岩の壁に『9696』と彫ってあったのを見つけて、その通りに押してみるとゴリゴリと地面が揺れるような重たい音がして、目の前の岩の扉が横にずれはじめた。
 音は反響して、いくつもの音と重なって響きアイを包んだ。

 アイは怖々と部屋の中へと足を踏み入れた。
 しかし、隣から「あっ」と言う声が聞こえて驚き飛びのいた。ダンスパーティが中で開催される心臓の音を鼻息から漏らして、緊張を鎮めようと咳払いしながら隣を見ると、自分が入って来た扉のすぐ隣にももう一つ扉があって、そこから少年が足を踏み入れているのが分かった。
 その姿を見て鏡が置いてあるのかと思った。
 アイは右足を上げてみた。しかしその像は動かなかった。そればかりか彼は左手を上げた。
 アイは呆然とその姿を見た。とても現実のこととは思えなかった。
 そこに立っていたのは、アイであった。

 さっきの声はもう一人のアイが、自分を見つけて驚いて出した声だった。
 アイ同士は見つめあって、互いに気まずくなった。

「こんにちは」と言ってみる。

「こんにちは、アイ……だよね」

「うん。きみもアイ……」

 とりあえず、二人とも笑ってみた。しかしその歪んだ笑顔はお互いの笑顔を打ち消しあう。静寂が部屋中の空気を食い散らかした。壁から小石の落ちる音だけが、残って響いた。

 さて、話を聞いてみると、相手のアイもクァシンがふくれ病にかかったので、銅水を手に入れないといけないらしいと分かった。部屋の奥には確かに銅塊が置いてあった。けれど銅塊は一つしかなかった。これを持り帰らないと、クァシンはきっと助からない。どちらかが持ち帰ることはできるが、どちらかは持ち帰ることができないのだ。

 しかしアイはそれほどの時間も待たずに言った。

「きみが、持って帰りな」

「いいの? そしたらきみのクァシンが助からないよ」

 アイは目を上げて聞いた。

「でも、きみのクァシンが助かるでしょ。ここでアイはこれを自分では持って帰れないよ」

「そうしたら君のクァシンが助からない」

「そうだけど、ここで僕が持って帰ることはできない」

「ほんとに……そうなんだ」と相手のアイは考えているようだった。そしていくらかしてから「ありがとう」とアイに言うと、銅塊を掴んだ。

 二人はお互いの扉から帰る。手を振ってお別れした。

 銅を手に入れたアイはトマホークの手綱を引いて歩いて村へ帰ることになった。マフトは先に帰ったらしい。あの足幅でどのくらいの時間がかかるかわからないが、森に慣れた本人がそう決めたのだからきっと無事なのだろう。アイは重たく銅塊の氷のような表面を手で温めて、ぬるくなるとまた冷たいところを握った。
 村に到着した。アワトルアワにこれを使ってどうやって銅水を作るのか聞くつもりであったけれど、戻ってみると、アワトルアワたちは集まってひれ伏していた。彼らの拝む先を見るとそこに鹿がいた。

「あの……」

 とアイが出ていくと、「久しぶりに現生へ降りてきたぞよ」と鹿がアイの前まで飛んできた。

「鹿神様だよ。鹿神様だよ」とアワトルアワたちは口々に言った。そこにマフトもいた。

「あの、僕は銅水を作りたいだけで……」

「ふん。……里山も奥へ行くと消えない火というものがあるぞよ。この世の成り立った時から燃え続けるという火じゃ。そこへその銅と水を持っていき、先に水を火に浮かべて空気を混ぜるとそこに銅を入れて温めると良かろう」

「ありがとうございます」

「なぜそなたにこうも親切に教えたかというとじゃな。……クァシンには生きていてもらわないと困るのでな。愚者アイよ、彼を助けるのじゃぞよ」

 アイは言われた通りに銅水を作った。消えない火というのは、小さな焚き木の上に眠るように燃えていたが、近づくと慌てて盛んになった。


 出来上がった銅水を町へ持って帰ったころには、クァシンの体は二倍にも膨れあがっていた。アイはそんな丸々クァシンに冷えた銅水を飲ませた。するとクァシンの体は萎んでいき、元の通りに戻った。三時間後には大量の青白い尿も出たらしい。タニシの女神の言うには、これで体の中の蚊も死んだということだ。
 クァシンが目覚める頃、アイはぐっすり眠っていた。


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