『アッシャー家の崩壊』を崩す
わたしが女子博士である。紛うことなき、一分の狂いもなく、真のまことのマコトに女子博士である。女子博士の女子博士たる所以はわからない。考えないでもいいはずだ、というより考えることほど馬鹿なことは無い。申し訳ないが、私が女子博士であることは、たとい総理大臣と大統領が逆立ちをして相撲を取っても変わらぬ事実であるから……
失敬、芯が切れてしまった。わたしは酷い早り書きと、持って生まれた非力から、シャー芯は2Bを使うことにしているのだが、この消費のあっけなさといったら無い。一日一本もたないではないか。
それほどに貴重な——ことに貧乏な世代のわたしにとって——シャー芯の骨身を削ってまで雑日記を書いているのには、三つの理由がある。つまらない方から説明しよう。
現今、教室には包丁が飛びかっている。
むろん、現実な包丁ではない。「包丁」である。つまり家庭科の先生の指示するP126に載るさまざま人参の形、これらの造形方法などという河漢の言が長々と(なんと50分かけて!)垂れ流されるのだ。たまったものではない。だいたい、こんな離れ業、聞いてできるなら苦労はない。不立文字であるはずだ。なら聞く必要、ここになし。まずもって、家庭科家事料理だけは、一生ごめんである。
しかしこの家庭科の先生は、ひじょ〜に面倒な性格を持っている。
授業中、少しの私語も許さない。
席を立つのはむろん駄目。
本など勝手に開いて読もうものなら……
わたしが女子博士である理由など考えるだけ馬鹿だとはいったけれど、本を好いてこその女子博士であることに異論を挟もうとは思わない。
こんな退屈な生あたたかい授業を無理に受けさせて、なおかつ自由も奪うとは、とんな遣らずぶったくりである。教師というものはそうとう無理な性をもっているらしい。
本は読めない、ならすこしく暇つぶしをしようと思いついた。
それでわたしは、数学のスカスカなノートに、こうやって濃いシャーペンで文字を綴り始めたのである。
二つ目の理由は、つい昨日『アンネの日記』を読み終えたからである。
これにはもはや無駄な説明は不要かと思う。
ふと思い立って、日記みたような物をつけたくなる三日前の衝動である。無理に続けようとはもはや思わない。しかし、今後も暇な授業やら、読書に疲れた退屈な時間があれば、これは中々いい趣味だと思う。二日続けば自分を褒めようと思う。
そして最後にわたしの野望のことであるが、この世の全ての小説やら伝記やら歴史書とか(あと日記もね)ありとあらゆる「本」をわたしの言葉によって一つの世界に混ぜ込みたいのである。わたしはその世界を『小説界曼荼羅』と『読書界曼荼羅』と名づけてしまった。これを恵果アジャリのごとくにひとまとめにしてしまおうと想望巨大化させているのである。
おばさんが黒髪をくくり直した。
そろそろ家庭科の授業は終わる。いつもより、幾分短くて助かった。彼女はチャイムと同時に授業を始めるところが欠点ではあるが、チャイムと同時に終えるところが長所である。さらにはしばしば数分先んじて終える。
指も少々疲れてきた、さいわい一度このノートは閉じねばなるまい。
家に着いた。
校舎を出ると昼過ぎの日差しがちょうど平和をもたらしていた頃で、わたしがバス乗り場へ到着するとスミレが出迎えてくれた。たった一株の寂しいスミレである。養分のない地面にどうにか一つだけ小さな花をつけたようでいじらしい。ベンチによって風からも傍若無人な人類の足からも守られているので安心である。わたしはありとあらゆる花の中で、すみれが一番すきである。
バスから電車に乗り換えて家に帰った。
本日扱おうと思う作品はエドガー・アラン・ポー『アッシャー家の崩壊』。
短編だから読みやすいでしょう。
わたくしごとだが、ポーはそれほど読んでいるわけではない。が、ポーを評価する文章にはよく当たる。吉本隆明。安藤礼二。文芸批評、文学論界隈にポーは人気である。
さて性根を据えずにとりかかろう。
今回読んでみて、夏目漱石の『草枕』を思い出した。そこで語られている芸術・美術論はまさにポーが実践しているものであることに気がついた。
『草枕』にはこうある。
もちろん、ここで「常識」という語がいかなるニュアンスで用いられているかがこの一文を全て決するのであるが、文章は段落を変え芸術の行為を「美化」と呼ぶ。そして「その実は美化でも何でもない」と言う。
どっちなんだい。
結局どっちか、——わたしに言わせると「美化」である。
要するに、世界に美しさはある。しかし常識的に「汽車が美しいもの」だなんて普通は思わない。世間的な「常識」で美しいものとそうでないものが決まっていて、そこから逃れられない限りは世界から美を発見する芸術家としての仕事はできない。
ということだろう。
あたりまえの世界のうちに美を見出し、それを作品にするのが芸術家である。
ターナーは美しいと思って汽車を描いたろうという見地には諒としがたいが、それはさて置き、芸術作品には現実世界から「常識」を抜き去ったものであるという一面はたしかにあろう。
常識とは現実である。
作品とは理想である。
わたしのメモによると『草枕』のこの部分を読んだとき、三島と川端を思い出している。なぜなら彼らこそ理想によって作品を作っている、つまり現実をはぶいているからだ。
三島の描く男性愛に汚らしさはない。彼は精一杯うつくしい言葉を使い、それを表現する。が、現実の人間の男はそんな毛穴も垢も肌の偏りもない存在だろうか。剃り残しのムダ毛や、しゃべってるときひゅっと白い唾が飛んだり…。彼の描くほどには美しくないのは明らかである。
それは川端の描く少女においても同様。
彼らは現実の男・少女のうちから、美しく表現できる部分だけを切り取り、言葉に変換して作品にする。するとあら不思議、まるでそれが美しいあるために生まれたもののように映る。言葉はその特質として取捨選択が自由である。彼らはそれを巧みに使う。無意識のうちに箱の中から気にいった傷のない積み木だけを選びとって自分の理想の建物を拵えるのである。
さてポーはそれを意識的にやり、さらに技術として確立することに成功した作家である。
と真意表明する彼の著作「詩論」において彼は、彼の一番有名な詩である「大鴉」を選び、それが全て理詰めで作り上げたものであることを鼻高々に論述する。
「美に最高の表現を与える調子は何か」と問い「それが悲哀の調子であることは明白」と自答する。作品全体の雰囲気を決めると、いざ創作に取り掛かるのだが、注意することがある。
「憂愁をできるだけ帯びている単語を選ぶことが必要」なのである。
一つ一つの言葉選びが作品全体に「悲哀の調子」を帯びさせるのだ。
その他、
・孤立した事件の効果には、空間を限定することが絶対必要である
・クライマックスを決めておけばそこに至る展開を段階づけることができる
・嵐の夜に設定したのは、室内の静けさとのコントラストの効果を得るため
・烏をパラスの胸像の上に止まらせたのも、大理石と羽毛との色彩のコントラストを効果づける
など。徹底して解説しきる。
彼のこの姿勢はもちろん短編小説にももたらされている。
『アッシャー家の崩壊』にしても一読してその感を受ける。
さて今回わたしはこの作品を崩そうと思う。
『アッシャー家の崩壊』は芸術的理想化によって、細部まで「恐ろしさ」「不気味さ」で埋め尽くされている。ポーは現実からこういう恐怖だけを取り出して作品を構成した。
これはつまり、それ以外の要素を捨てたことを意味する。
彼は三島が男性を美にした如く、月や建物に使う石材のいたるところにまで、そこから「常識」を抜き去り、「恐怖」だけを残し作品に移入した。
恐怖、不気味につながる単語選びに全勢力を注ぐのだ。
ここから「現実」と「作品」の違いは密度にあることがわかる。
「現実」において月はどうとでも取れる。愛とも無常とも天体、物質とも。
「作品」においてはそこから「恐怖」しか読み取れない場合がある。作家の意図によってである。しかし、だからこそそこに付け入る隙があるのだ。
わたしは、『アッシャー家の崩壊』からむしろ「恐怖」を捨て去ってみよう。
なぜか?
暇だからである。
そして「現実」時点にはあったはずの「常識」をそれと取り替えてみよう。
今回の文章はそういうものだ。
『アッシャー家の崩壊』を、わたしが、心地よい空間に変えてしまおうというのである。
彼のおこなった操作が任意の空間作りであるなら、いかに言葉を尽くしても隙間はできる。その隙間を、暇人・女子博士が掘り返し不気味なアッシャー家を反転させてやろうではないか作戦。いざ雲蒸竜変。
冒頭、
不穏感マシマシだ。
まず「日」そのものが「もの憂く暗い」。さらに「空」も「重苦しい」が、地面については書かれていない。きっと、明るく燃えるようなコスモスが咲いていたのだろう。そして馬については特に記述がないので「輝くような白馬」にしよう。うらぶれた地方にさしかかる前に陽気な音楽の街を通過していたかもしれない。こういう手順でこの物語の作者として全てを裏返すのである。
すると次のような文章になる。
次の二文はそのままでも良かろう。
冒頭の出出しは悪くないはずである。
しかし——
この後、思わぬ障壁が待ち受けていることに、わたしはここで気づいた。
「詩的なるがゆえに半ば快い感情によっても、和らげられなかった」と、対策が打たれているのである。これによって、わたしの定石「快い受けとめかたに変換する」が封じられているのだ。
ではなぜ(その上の文章)「堪えがたい」のか……?
それを説明せねばなるまい。
ゆえに心情描写を情景描写やその他の記述に置き換えてやり過ごすということもできない。心情でなければ「堪えがたい」の説明がつかない。しかし、世界の可能性は無限である。主人公はきっと、前日の夜にグラビア雑誌を読んでいたのである。だから次の日にまで「堪えがたい愁い」を引きずっているのであろう。
その後の展開は、アッシャー家の様相を描写するものであるから、表現次第でどうとでも戦える。
あと、ポーの自我によってしつこく書かれる心情の部分はめんどくさいの書いてないことにしよう。ポーの手によってこの作品から徹底的に「お腹の調子がどうであるか」「チンポジは正しいのか」についての描写が省かれているごとくに、私の手によって心理描写は極力省く。漫画『ワンピース』においては「ルフィ」の心情は意図して一度も書かれていない。なので書くも書かないも作者のエゴ。自由に省いて良かろう。
だいたい、手法は飲み込んでいただけたであろう。
以下に、完成した作品を載せる。全文は載せない。流石に長いし、その必要もない。第一誰も望んじゃいないであろう。
よって「冒頭」「アッシャーと会う場面」「墓を埋める場面」「ラスト」だけを掲載する。
1
高貴な静粛さがただよう、秋の日の夕暮れごろ、辺りに明るく燃えるようにコスモスの咲く中を、わたしは輝くような白馬にまたがり、陽気な音楽の町を通りすぎた。一番星の輝くころだろうか、ようやく待ち焦がれたアッシャー家が顔を出した。
なぜかは知らぬが——邸の姿を一目見るなり、堪えがたい愁いがわたしの胸にしみわたった。堪えがたい、とわたしは形容した。
それというのも昨晩、本屋で売れ残っているのグラビア雑誌を見つけて買った。財布に余裕があったのと、丸一晩何もない宿で過ごさないといけなかったからだ。夜更け過ぎまでページをコメディ映画に出る泥棒のようにゆっくりめくって眺めた。宿主が隣室で寝ているので、音を立てることができなかったのである。
それもあって、わたしは耐えがたいのだ。耐えがたい憂いが今も身体の奥に澱のように残っている。
わたしは目の前に佇立す邸の景色を——なんの変哲もない景色を——装飾の少ない壁に——青く夜空を映す窓を——生い茂ったわずかな菅草を——よく育った末の含蓄を含んだ老木を、「ふーん、こういうとこに住んでんだぁ」という気分で眺めた。
さしずめ座禅による白昼夢の酔いざめ心地——仏陀のような目覚めの衝撃——そして無明の克服——とより他にもたとえのようあるかも知れない気持ちであった。
この光景の明細を、この一幅の絵画の細部を、わずかばかり配置変えしただけでも、この絶妙に成り立っている、独特で偶然で統一的な印象は崩れてしまうか、あるいは消え去るのではあるまいか。
2
この邸の主ロデリック・アッシャーは、わたしの幼な友だちの一人であったが、一別以来長い年月が流れていた。そころが最近、遠く離れた地に住むわたしのもとへ一通の手紙が、——この男からの手紙が——届き、そのわたしを呼ぶ強い気持ちに、わたし自身出向いて行かざるを得なくなったのだ。手紙の筆跡には、わたしを限りなく頼っている気分が前面に現れ、手紙を送ることができるということに興奮している様子であったし、もっとも親しいただひとりの友人であるわたしに会い、その交友の楽しさで日々の憂鬱や悩ましさを和らげたいという願いもはっきりとこめられていた。
わたしがはいって行くと、アッシャーは長々と横たわっていたソファから身を起こし、元気のよい愛想よさでわたしを迎えてくれた。しかしそれにしても、心地の良さそうなソファである。まるで雲か水饅頭のように膨れ上がり、彼の尻はうずまるようにそこに収まっている。彼がわたしを迎えながらもどこか気だるげあることにもうなずける。それだけに、その挨拶が、良心から出ていることがよくわかった。彼に勧められて、彼の隣にわたしも座った。
馬に乗ってきたせいで蓄積した腰の痛みが、スペンジで吸い尽くすように消えていった。
3
あっシャーの願いを受け入れ、わたしは仮埋葬の支度に手を貸した。美しい少女の遺骸を納棺すると、われわれは二人だけで安置所へ運んだ。棺を置いた窖は小さい上に湿っぽく、明かり取りもなかった。しかし床を見ると彼が少年時代に捨てたの物であろうかグラビア雑誌の切り抜きの紙が数ページこびりつくように落ちていた。
「懐かしい写真だね。最近はもうみないが、この女優さんも、僕らよりずっと年上かと思うと、少し変な気分がするよ」
「彼女に関してはついこの前、広場で講演会をしていたよ。ちょうど前を通ってね、懐かしいやら、少し恥ずかしいやらですぐに帰ったけどね」
このような会話があった。
この窖はわたしの寝室のちょうど真下にあったらしい。しかも興味深いことに、この窖には歴史があった。それも生半ならぬもので、中世からのものである。
どうやらそのむかし封建時代には、地下牢として使われていたそうである。
それから時代が経つと、火薬ないしその他の可燃性危険物の貯蔵所として使われたらしい。
どっしりとした鉄の扉に、銅板が貼ってあった。その重い扉を開けると、調子のいいバカな大学生の集団が勢いよく笑い声を上げるみたいに、高い音が響いた。
われわれはまだねじで止めていない棺の蓋をすこしばかりずらし、少女の顔をのぞいてみた。兄にそっくりな妹の寝顔がそこにはあった。その気づきをアッシャーは感じ取ったのだろう、
「じつは双子なんだ」とわたしに打ち明けた。「だから瓜二つなんだ」
「違うよ」とわたしは言った。「男女の双子という事は、二卵性だから、一卵性の瓜二つのような双子にはならない。君たちの顔が似ているのは双子だからじゃなく、両親が同じだからだ」
4
吹き込んでくる煩すぎる風に、
「闘牛か!」とつっこんだ。
それが滑ったせいか、風のせいかわれわれは足元をすくわれそうになった。
わたしはなんやかんやあって、手にしていた本を音読した。
『足元の銀の床にと落ちた……』
その言葉がわたしの唇を洩れるや否や、高校給餌やいやいやながら部活の倉庫の重おたい鉄の大扉を(文句たらたら)開けるような音が、部屋にまで聞こえてきた。近くにグラウンドはなかったはずだ。倉庫だけが離れにあるのか? そうではないらしい。アッシャー曰く、「それはずっと聞こえていた」とのことだ。
そして彼はまるで小説の登場人物かTwitterで嘘の体験談の時に出てくる「私がちょっと尊敬している人」くらい長く一人セリフを言い切ったかと思うと、急に立ち上がって、
「妹はいま扉の外に立っているんだ!」
ととても大きな声を出した。
妹は貞子さながら部屋に入ってくると、兄を押し倒す。
わたしは、逃げた。
さて試みは失敗である。まあ、それも良かろう。元より勝っても益ない勝負である。
女子博士