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みどりちゃん t5

 水族館は、四角く大きくそびえ立つ。

 低い朝日に影になった水族館は、霧に溶けて、ぬっくりと揺れていた。わたしはその青い建築に竜宮城を思い出した。

 何時に開くのかわからないけれど、とりあえずわたしは入り口まで行ってみた。周りにはちょっと足がすくむくらい誰もいない。

 けれど別段そこで客を止めている風はなく、柵もロープも張り紙も看板もなかったので、いきおいわたしは空気流に逆らわずに進み、ついにはその自動扉を開けてしまった。

 そこには女の人が待っていた。制服を着た水族館の人である。チューリップみたいにスマートにたつ彼女は、わたしをみるとふうわりと花弁をひらいた。

「お待たせしました」

「あぁ」

 わたしは見惚れている場合ではないと、慌てて鞄に手をぶつけながら、どうにかチケットを引っ張り出した。どうやら会場はしているらしいのだ。朝一番となるとこんなくらいに、もうまるで海の底みたいに動きのない冷たいところとなっているのか。

「いま、ここ、始まってますか?」

 ふと眉をあげわたしに疑問符を見せたあと彼女はわたしの不安を理解したらしく「始まってますよ」と答えてくれ、重ねた手をほどいてわたしのチケットを受け取った。

「お二人さまですね」

「え、いや……。あの、今日は一人で、」

「いいえ、そちらに」

 と彼女は手をさした。しかしそのさす方が、わたしの隣や後ろなんぞでなく、なんと足元ではないか。何かと思って足元に目を落とすと、わたしのズボンの裾にひとつひっつき虫がついていた。なあんだ、超一流のジョークか。と安心したわたしは、「すみません」とかがんでひっつき虫を指でとった。すると、

「アリガト」

 と、ひっつき虫から、声がした。

「ん」

「アリガト」

「……はぃ」

 館員の女性を見ると、相変わらず微笑んでいる。彼女は「どうぞ」とセキュリティをあけてくれる。わたしの心は不可思議な場所に落ちてしまったが、とりあえず中に入ることにした。声のするひっつき虫は、なんだか捨てるとかわいそうなので、胸のところに付け替えておいた。

 廊下を進むうち、空気はすんと暗くなった。水族館の順路はまずエスカレーターに乗って上空に登り、その高い部屋から少しずつ回転しながら下へ降りてゆく螺旋構造であった。わたし以外にまだ人は全然に来る気配がないのが若干に心細かった。

「ぼく、どうなっちゃうんだろう」

 最上階にたどり着いたとき、またひっつき虫が喋った。

「ふーん?」

 ふと聞き返したわたしの声は、なんだか母親じみた優しい音、あたたかく柔らかいパンのような雰囲気があった。

「ぼくこんな、ところにきちゃって、これから、どこに行けばいいのかな」

「ごめんね、連れてきちゃって」

「でも、おもったよりも、こころぼそくないよ」

「そうお?」

「あれってなに?」

「魚だね。ええっと、サクラダイ、ああ、みて、マンタもいる。エイ……なのかな?」

 わたしたちは大きな水槽の壁をつたって歩いた。道はゆるやか坂になっていて、やはり真ん中の水の柱を取り囲むようになっていた。魚は、世界を巡るように展示されてある。わたしたちはヨーロッパの近くの海の魚をみた。

「ねえ、こんなところまできてもいいのかな」

 ひっつき虫が聞いた。

「なんで?」

「こんなところまでくるようなものじゃないもの」

「わたしが土まで連れて帰るよ」

「それでも、やっぱり宙にういているのは、おかしいおもいだよ」

「ふふ」

 あまりに心配性なひっつき虫にわたしは笑ってしまった。

「息ができないの?」

「いきはできるよ。べつに、これといってふじゆうはないさ。服にひっつくのがぼくだから」

「じゃあ、なにも怖がることないじゃない」

 とわたしは云った。すると、

「それでも、何もなくても、不安なときってあるでしょ」

 と、今度はわたしの後ろから声がした。わたしは、わたしの他に人がいたことに驚いた。彼女が急に現れたのにも、この水族館の設計的仕掛けがあった。ここまでの道が二重になっていて、わたしたちはその合流する踊り場で出会ったのである。そしてまたも驚いた事実に、後ろを振り向いて声の正体を見ると、その人はわたしにそっくりな女の子であった。身長も同じくらい。髪の長さはわたしより長かった。そして、彼女の方がわたしより、目の奥がしっくりと大人じみていた。

「お、おはようございます」

「おはよう、みどりちゃん」

「わたしのこと知ってるんですか」

「一緒に降りましょ」

 わたしはこのわたしと同じくらいの歳の、不思議にわたしと同じ雰囲気のする女の子と、喋るひっつき虫とのずっこけ三人組で行くこととなった。

 魚を追ったり、章魚を睨んだり、水母をつついたり、鮫に震えたりしながら、わたしたちは坂を歩いたり階段を降りたり、徐々に地下へと沈ずんいった。

 彼女はわたしに色々と質問をした。それもわたしの目をみて、わたしの心を覗くように聞いてくれた。おかげでわたしは、いろいろなわたしのことを話した。それから話が飛んで、兄やメビウスさんの話までも少しした。

「好きなものはなに?」

「なんだろう」

「食べることが好きでしょ」

「食べることは好き!」

 そう答えると彼女は笑った。彼女は「寝つきが悪い」とか「人付き合いが苦手だが、一人でいるのもつらい」とかわたしのことを云い当て、それから彼女自身も同意してうなずいた。「わたしもよ」と云ってたえきれないように笑うのである。しかしそれにしても、彼女の笑顔はとても人を幸せにする表情だった。それを云うと彼女は「あなたもそうよ」と云った。

「ぼくも!」とひっつき虫も会話に寄ろうと声をあげる。するとまた彼女は「そうね。あなたの笑顔も綺麗よ」と云った。

「あなたの名前は? なんて呼べばいいの?」

「うーん、なんでしょう? 忘れちゃったわ」

「わたしの名前は知ってるのに?」

「うん」とうつむいて彼女は涙を流した。

 するとそれをみたひっつき虫が「しずくってよぶのはどう」と提案した。涙を見て思いついたのだと、自慢げに主張するので、彼女は恥ずかしそうにうなずいて、わたしたちは彼女をしずくちゃんと呼ぶことにした。

「しずくちゃんはなぜここへきたの?」

「ここの一番下の階にね、微生物ちゃんが見られる、展示室があるの。そこが最終展示よ」

「それを見に来たの」

 そう聞くとまた彼女は笑った。嫌なことでも分からないことでもなんでも笑顔でやり過ごそうとする、心の優しいタイプの人だろう。小学生のころ、わたしの友達にもそういう女の子がいたのだ。そとからの衝撃をなんでも耐え忍ぼうとしてしまう性質の子で、わたしが話を聞くいがいはだれからも頼られていない風にみえて儚かった。「じゃあ、色々見たあと、そこへ是非いこうよ」と提案して、しずくちゃんが嬉しそうな顔をしたとき、わたしは自分が少し成長したような気がした。大人な行動に近づいた感じがしたのだ。

 わたしたちは、そして、そこへぬっと現れた白くて丸いイルカみたいなのに驚いたのだった。

にゃー