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パリ五輪、中上健次、言葉(7/29)

どうもどうも
意味なく言葉書きたくなったのでこれ書きましょう。
ね。ね。

音楽を毎回紹介してましたが面倒なのでリンク貼ったりは辞めます。
最近はエロル・ガーナーかブイチューバーの曲しか聴いてません。エロル・ガーナーは「I'm In The Mood For Love」が一番好きで(なんならあらゆる音楽で一番好きになりつつある)、ブイチューバー関連では月ノ美兎の「みとらじギャラクティカ」こぼかなえる「HELP!!」夜空メル「かぷうぃん中毒」あたりが最近ハマった。

で、構成も主題も決めず思いついたことを書くのですが、パリオリンピック。
すでに悲喜交々、Twitterでは賛否の論戦となりつつあるこの大会の開会式。これは面白いと思った。
フランス革命賛美とポリコレのちゃんこ鍋が主なテーマとして見られるのですが、これ、ものすごく見応えのあることなのではないかと思うのです。
フランスがポリコレで終わってることなど、ずっと前からそうでした。なんなら数年前アメリカがポリコレのせいで崖っぷちだと話題になってる頃フランスはその一歩先にいました。それが今多くの日本人にも伝わった。しかし、「フランスがポリコレに汚染されてる」的な言葉をチラと見ましたが、今回の開会式を見てそうではないと確信しました。フランスはそんなもんじゃない。

フランス革命を賛美する感覚と、ポリコレを突っ走る感覚、これは根っこが全く同じなのではないか。

と思ったわけです。とにかく彼らは現在常識として流通しているものをぶっ壊すのが好きなのです。なので、フランスが終わったなのでは当然なく、フランス革命の頃からフランス人とはそういう生き物なのかもと。あの開会式はその事の発端と最先端を同時に見せてくれたわけです。

ミラン・クンデラ『不滅』を読んでましたが、1990年の小説であるここに、まさにフランスのそのような姿(これが先進的だと広まればバカな思想でも広まる)的なことが書かれてあったので、本当に今に始まった事じゃない。(フランス革命に始まったと言うのはのり子の妄想込みですが)
しかし少なくとも、フランス革命をあのような形で賛美して、マリー・アントワネットの首で遊んだり、最後の晩餐をあのような様子で再現できるような国でなければポリコレもここまで進められないのだろうと思いました。
その点日本はまだまだ甘い。
あのフランスの姿を良いとも悪いとも思いませんが、ユゴーやバルザックのパリはもうない。煌びやかだが、混沌があって、しかし場末の安い喫茶ですら哲学的な会話がなされて、浮浪者も哲学者に負けない理論を繰り出すようなパリは幻想に過ぎないことだけはわかった。きっと我々はフランス語で話せばなんでも賢そうに見えるというのに騙されていたようだ。フランス語の論理性に。
ただ「フランス革命を愚弄するのは最低」みたいなことは他国が絶対に言えないことだとだけは思う。その国の歴史はその国の人にしかわからない何かがある。その国で生きると言うことは、その歴史と常に向かい合わせで過ごす(街も言葉も文化も政治も歴史の最先端だから)ことに他ならないから。広島の原爆に対しては日本人にしか持っていない独自の距離感がある。外国人が愚弄しようが理解しようが悼もうが、それはやはり外部の意見にすぎない。だからフランス革命をフランス人がちゃかいしていても、そのちゃかしすらちゃかせないと、思いながらちゃかしているんですけど。

それはさておき、最近衝撃を受けた小説がありまして、
中上健次の『岬』ってご存知ですか。

知ってるわい、と言われるかもしれませんが、とんでもなくよくって、これを読んで文学とは主題のなさだなという強迫観念じみた自分の文学論に取り憑かれております。
「岬」には主題がない。
厳密にないかと言うと「閉塞感とそこから逃げ出せない苦痛」というのが作品を通して鳴り続けているのですが、しかしあらゆるシーンがそれとは無関係に引きだされ連なっている。
同じ本に「黄金比の朝」と言う作品も収録されていたのですが、これは全然ダメで、はじめ主人公は左翼団体のポスターを街で受け取って、そのあとビルの上に来た時、そのポスターをびりびりに破って捨てる。
こんなにあからさまだとよくない。
一気に私はあからさまな小説がつまらなくなりました。
「岬」での一番良いシーンは父の葬式の日、主人公の姉が「殺しにくる」とおかしくなって叫び出し、それに呼応するかのように家族から本音の叫びが出されるところ。このように物事、現実に真剣に真っ向から向き合う瞬間がのり子は大好きでして、「仁義なき戦い」の二作目広島死闘編で北大路欣也が警察に追われるようになったとき、それを知った村岡組は彼を捨てるのですが、そんな組長に対し「あんたは人殺しや」と怒る北大路欣也の恋人役の梶芽衣子の演技を思い出しました。

このように主題のない(明らかでない=表面に出ていない)小説というものには、それが文章(=言葉)によってできている、それが最終的には言葉でしかないところから、作家が言葉と向き合って書いたことで出来上がるような気がしています。

言葉と向き合うというのは比喩ではなくて、本当に言葉と顔を向き合わせる。紙にいくらか書いた言葉を見て、見つめて、そこからどんな言葉が生まれるかと言う営みを執筆中絶えず続けることが重要なのではないか。そんな気がしています。

なぜそのようにして言葉と向き合うと良い作品になるかの説明もしたいのですが、そろそろマクドがしまるのでここまでにします。
初めてマクドのコーラフロート飲みましたが、うまかった。マクドのコーラは嫌いでしたが、フロートのためのコーラだったのでないかと興奮しました。
では。

にゃー