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__文子 空想管理局で

 スピンが遠ざかる。(スピン=新潮文庫の本に設置されてる糸)ページを捲るたび私の尻と便座はより癒着してゆくようである。
 現在、トイレにこもって、本を読んでいる。
 なぜなら——短直に言って、うんちが出ない。いまや、仰ぎ眺める青空からオルガンが落っこちてくることを期待するほどに、期待できない。腹の底に流れるオーラのどこを探しても、物が出る予感は無し——である。

 本を閉じて、スマホを見た。
 メールが届いている。見たことのない相手から来た手紙には、ただ私個人が特定できる内容が礼節正しき文面に折り畳まれており、最後のところには住所が書いてあった。そして、「お待ちしております」とあった。
 私は、トイレを出て、行ってみることにした。

 京都駅内部のアスティロードと名付けられている地下街の西端付近にある『関係者以外云々』と書かれた扉こそ地下へと続く階段であり、八重にも折り重なった階段を降りると、広い研究所があるという。

 メールにあった内容にとると、数日前の私によって行われた信号無視——その結果、ここへ案内されたらしい。根本に通底するのだという。元より下敷きとして私の文学熱があったのも確かである。廊下の壁については、『知識こそ理解力である』誰の言葉か知らないが(言葉の右下にヘブライ語で名前が打ってある)銅板が重々しく照らされている。

「私の罪を償わないとダメなんでしょうか」

「何の事かね?」
 いやに古風な声をもった若者がいる。

「信号無視のことです。これくらいのこと、不問に付していただきたい」

「それはそうと、君は名を鉄と言ったね」
「はい」
「うむ」
「何かあるのですか?」
「いいや何もない(そういう意味では何もないだろう)」
「……えぇ」
「なんだね、文句(言葉)があるなら言ってみなさい」

 文句はないが、質問がある。

「一体何で連れてこられたのか知りたいです。『ちょっと来たまえ。君がしたのは、信号無視だ』とだけ言われ無理やり連れてこられた。厳しい内容なので、犯罪の変種かなっと思ったんです。面白がってきてしまいましたが。でも、名前を聞いても、何もない。一体何が目の前で起こってるのやら」

「何も起こってない」

「第一、京都駅の下に、こんな研究所があるなんて知りませんでした」

「世間にとっては、公表されてないからな」

「何を研究してるんですか?」

「世界中すべて(の人が)、空想を個人なものだと判断している。それは幻想なのだよ。われわれは空想させること(仕事)をしているのだ。ここ(北本願寺)ではね、常に人の脳にモティーフを入れている」

「は、はぁ」

 これはきっと電波系なるものの、生き残り。いや生粋の電波少年である。実験しているというよりされている側かもしれない。長時間とはまだ言えない程、ここにいる私は、飲み込まれそうである。そのせいで言葉遣いがズレにズレている。二秒後において私はそれに気づくのだ。
 青年は続けた。

「ランダム性と、非効率と、無意味とに、新たな創造性と世界の安定の存在(あるいは鍵とも)があるのだ」

「よくわかりません」

「うむ。それもそうだろう」

「私は何かすればいいんですか?」

「よし」

 と人差し指を上げた彼はそのまま足を動かして奥のドアに消えてった。
 と同時に、背の低い女性を伴って来た。四十代に見える。(おそらく、五十二か三)

「初めまして、長瀬と申します。こっちは長岡」

「はじめまして、鉄文子です」

「無理やり来てもらってすみません。実は呼んだのには、理由がありませんの」

「あ、そうですか。え? ないんですか? なんなんですか、ここは」

「ここは、『空想管理局』と言って、人々の空想を管理する場所。具体的に言えば、夢を作って送信したり、フィクション作品の形成をしたりです」

「みんなのぶんの夢を作ってるんですか」
 これには驚かざるをえない。(——私が〈今までの人生で何の疑問もなく〉見ていた夢〈とか……フィクション?〉が、人の手によって創作(=形成)されたものだったとは)

「いいえ、要請があった場合のみに限ります。フィクション作品にはたいてい関わってますよ」

「アドバイスしたり、ですかね?」
 当てずっぽうで合いの手を入れてみる。

「いいえ」
 外れてた。
「鉄さんもまたフィクション作品を時に制作することをこちらも把握しておりますから、そのていでお話しされていただきますが、作品には〈コード〉と我々が呼ばせていただいてる、流れのシステムがあるのです。フィクションを作ろうと発起した人は、何かしらの事件やら、人物やら、モティーフあるいは世界観を想定なさっています。それを私たちは受け取って、コードの中に埋め込んでお送りするのです」

「その結果私たちは……」

「話が思い付いたと、なりまして、書かれるわけです」

「いわゆる、降りてきた、というやつですかね」

「飲み込みがお早くて助かります。ストーリーを思いつくとは、コードを受け取るに他なりません」

「で、なぜ、信号無視が問題だったのですか?」

「ちなみに僕は、」
 と青年が口を開いた。
「京都大学の大学院を通過して、砂浜銀河基地を紹介してもらったのが初めさ。そこが解体になったのち、空想管理局へ来たわけだよ。ここの局長が、僕の親友の先輩でね。親友経由で紹介してもらったのだ」

 会話のならない人間である。

「彼はね、非物語性をもって生まれたのです」

 と彼女から説明してもらって、得心まではいかないが、納得はした。

「コードを外してるわけですね」

「そもそもコードの中にいられないの。まあ、いわゆる変人よ」

「わかりやすいです」

 さて一体私は何をすればいいのでしょうか。
 呼ばれたはいいけれど、現実、私がどう動くべきかは一向に教えてくれない。

「君は帰るという選択肢を取るだろうね。ここにいてもすることはないのだから」

 と彼は言った。
 あまりに淡白で、面白味に欠ける成り行きだが、私はそれを聞いてすぐに帰った。帰り道、小さな古本市が行われていたので、見に行ったが(並べられる本の質は極めて良かったものの)値段的にはどれもお得とは言えず、私の財布にも400円しか入っていなかったので、すごすごとそのまま何も考えず帰宅した。
 家について手を洗うと思いのほか心が透く思いがした。エアコンをつけて部屋のど真ん中に腰を下ろしたとき、忘れ物を思いついた。本が読みたい。けれど、あの読みかけの本は一体どこへ隠れたのだろうか。そうだ、トイレに置きっぱなしになっていたのだ、あのときメールを見てそのまま夢遊病者のように外出した私の姿が目に映る。本はその時に、置き忘れたままにしてあるのだ。確かに、バベルの塔を再現するごとく積まれたトイレットペーパー四段目の天頂にその本は、あった。裏返すと「100円」の値札が貼ったままである。私はそれを開いて、便座に座った。するとするすると恵みの雨が嬉しそうに降るみたいに、滞っていたうんちが、気持ちよく落ちた。


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のり子
にゃー