堕落者の末路
アニマル浜口が飛び出した。
私のスマホの中。
「気合いだ!気合いだ!気合いだ!気合いだ!」
わざわざ今頃こんなものをオススメしなくてもいいんだぞYouTubeさん。
しかし、この「気合い」という言葉に、私は胸を突かれる。
そうだ……私は意気地無しだ。私は半端者だ。堕落者だ。
のり子に「気合い」はいちばん縁のない言葉である。
また、この性根の腐敗を解消するためには、いちばん必要な言葉でもあるのだろう。
『薔薇の名前』
ウンベルト・エーコのデビュー作であり、現代小説の中でも、傑作といわれる。
ついに私もこの書を手に入れた。(と胸を張って言えないのは、ネットで買ったからである。読書好きであると同時に、古本屋巡りを趣味とする者にとってこのことがどれほど名誉を傷つけることか。……まあ、そもそもが一体何処に傷をつけようかと困るほどのちっぽけな名誉ではあるが)
私は、二ヶ月ほどこの書を本棚の上に置いていた。
この宝物を眺める時間があったのだ。
バレンタインチョコを食べ渋るみたいに。
「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」で獣神の剣を使い渋るみたいに。
ようやくこの書を開いたのは季節の変わるころ、桜が散りはじめていた。
舞台は中世イタリア、ベネディクト修道院。
雪山の奥に聳える威容な修道院で起こる変死事件。
写字室の奥に隠された秘匿の書物と、学僧たちの秘密、禁じられた行為。
そして何より、聡明な探偵役ウィリアムの興味深い価値観、理論とその活躍。
本好きと雑に自分を形容するが、SFと推理ものはいくら読んでもあまりハマらないのり子である。
が、例外がある。胸に受けたその衝撃とともに、私の本棚の「大事な本ゾーン」に収まる本があるのだ。
『薔薇の名前』も間違いなくそのうちの一冊になるだろう。
どこを読んでも面白かった。
推理ものにあまり興味がないだけあって、犯人が誰か、手口が何であるかにはやはり興味がなく、ただこの小説内で披露される蘊蓄だけを面白く読んでいるのである。
十四世紀に広まった異端派について。
当時の薬草学。
奇書・稀書のたぐい。
僧院なるものの仕組み。
つまみ食いのような本の読み方が基本である私が、この書に関してはどっぷり何十ページも続けて読んだ。
そのせいで(上)巻は二週間ちょっとで読み終えた。
(下)に入る。
まだ面白い。
が、読むペースは流石に落ちてきて、二日ごと、三日ごと、五日ごと。
書を開く頻度も落ちてくる。
一度に読むページ数も、だんだん減ってくる。
(下)巻も半分を超えた頃、私の悪い癖が出た。
全くの興味をなくしてしまったのである。
いままで幾冊の本がこの運命を辿ったろうか。
そして最後にはぺらぺらぺらと目を通すだけ通して仕舞ってしまう。
最悪の場合、読まないでやめる。
それが悪いこととは言わないし、それが読みかけ読書そのものだとも言えるのだが、そんな態度を生涯全てのことに対して当てはめていいのだろうか。
『薔薇の名前』だぞ。
有名な本だから価値があるとか、面白いとか、高い絵だから価値があるとか、美しいとか、そういう観点はのり子にはない。
面白い本だったのだ。
そして、まだ面白い。読めば面白いのだ。
なのに、終盤になるとのり子の脳からその存在がスッと消えてしまうのだ。
これは本だけでなく、アニメやドラマ、映画にも当てはまる。
毎週楽しみにしていたのに、最終回だけ見ていないアニメやドラマがいくらあることか。
原因はおよそ判明している。
映画に顕著なのだが、残り三十分かそこらで、その後の展開が決定してしまう瞬間があるのだ。起承転結の起承転までは、何が起こる変わらない。が、そこを過ぎると残りの結に関しては大体の予想がつくのだ。
だから興味を失う。
が、『薔薇の名前』はまだそこまで読み進んでいるわけではない。
もう一つ、読まされてる感というのがある。
例えばマックのポテトなど、残り十数本は食べ切るために食べている感じがする。ジュースの残り三口は飲み切るために飲んでいる。
本にもその状態がある。
序盤は楽しくて読むが、ラスト終わりが見えてくると、気分的に私が欲して読んでいるというより、読み切るために“読まねばならない”状態になっている。
のり子はきっとこの「ねば」に弱い。
途端に読む気を失うのである。
この「ねば」性のせいで今まで終盤が読めなくなっている。
おそらく、『薔薇の名前』中脱事件はこっちが要因である。
映画は勝手に流れるが、本はポテトと同じで、こっちが手を伸ばさなければ減らない。
しかし、『薔薇の名前』である。
「まだ止まってるんだぁ。『薔薇の名前』くらい読み切らないとねぇ」
という一言多いでお馴染みの脳内のり子係長の声も聞こえる。
やつの声は無視もできようが、どこからともなく、
「ねばから逃げてたら社会でやってけないよ」
とひそひそ声が、殊の外響く。
これには腐りかけの心臓がずぶりとかえし付きの銛で刺された気分である。
けれど、その通りなのだ。
もはやどんな言い訳も通用しない。
このポテトはまだ美味しいはずなのだ。
というアドソの悲鳴が聞こえる。
乗り越えようではないか。
この悪徳を。この堕落を。
(下)に触れなくなってもう何日経っただろうか。
真新しい本ばかりに手を出して、新味ばかりを楽しむ日々が続いてもう何ヶ月経ったろうか。(上)を開いたあの日から数えて——
これは性格や物語がどうこうという話ではもはやない。
気合いなのだ。
私に触れられなくなった(下)は自信を無くしたのか、五冊の本の下で寝そべっている。その上に筆箱が置いてある始末だ。
(上)はというと、出窓に置かれた「手作り段ボール本棚」に収まる女性作家シリーズの前に、彼女たちに見下ろされながら横たわっている。そして寂しげな目で一直線にベッドの私を眺め続けるのである。
私はこの件に関しては自分を責める。
こうまで自己を放ったらかしておいた自分を。
読みかけ読書家とは良い態度である。
決して悪い読書法ではない。
が、「読みかけ」を一つの読書法とするためには「読み切る」ことも一つの読書法として習得せねばならないはずだ。
どちらも自在に選べて初めて手技である。片方だけできるので消去法で選んでいるのでは、それは単なる堕落なのである。
読み切らねばというポテト的状況、読み切らねばという使命的感情。
ついに私はこの二つの十字架を背負い、その上で読み切ろう。
そして何なら犯人も先に当ててやろう。