ブレンダ・ローリングも善ひ 『失投』ロバート・B・パーカー(著) 菊池光(訳)
化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど、たとえば僕が女性をごはんに誘ったとしよう。
待ち合わせのお店にやってくる彼女はまず間違いなくメイクをしてやってくるだろう。
そこに恋愛感情があろうがなかろうかだ。
その化粧は僕の為だろうか?
その可能性もあるし、そうではない可能性もある。
おもてを歩くのにすっぴんはいけない、という彼女(というか一般女性)のひとつの規範がそこには存在するからだ。
僕の為だけに彼女は化粧をしてここにやってきたわけではない、というのが、まあ妥当な考え方だろう。
では、僕の部屋においでよと誘って、やってくる場合はどうだ。
それでも彼女は化粧はしてくるだろう。
地下鉄やバスやJRを使って彼女はやってくるからだ。
やはり第三者の目にさらされるという第一の規範にもとづいて、彼女はメイクしてやってくる。
自家用車を運転して来るのはどうだ。
車の中という個室では第三者の目に直接さらされる心配はあまりない。
信号待ちで横に並んだとなりのおっさんに顔を見られる危険性はあるが、しかし別にそれがどうしたというのだ。
車を降りて話をするわけでもなし、そこから親密な関係になるという可能性もほぼない。
だがしかし世の中で生きていると、何が起こるかわからない。
もちろん事故を起こして車の外に出ていかなくてはならない確率はゼロではないし、やんごとなき理由でセブンイレブンに寄る必要も生じるかもしれない。あるいはファミリーマートに。
僕へのお土産にマーケットに寄って、ビールやサラミなんかを買いたくなる衝動も無いとは云えない。
だからその時のために化粧をしてくる、という理屈はわかる。
しかしどうだろう。
100歩ゆずって、
「僕のために彼女は化粧をしてくる」と考えてみたら。
自分のために彼女は、決して安くはない化粧品で、然るべき道具をつかって、持っているその技術を駆使して「化粧」をしてくるとは考えられないだろうか。自分のためだけに。僕に化粧を施した顔を見せに来るために。
少しでも自分を綺麗に見せるために。
これは考えてみると、とってもときめく事だ。
わざわざ申し訳ないという気持ちになる。
くりかえしになるが、そこに恋愛感情があろうとなかろうと、だ。
女たるもの、多少なりとも「美しいと思われたい」と考えるのが人情だ。
だから化粧をするんだよと、それ以上でもそれ以下でもないんだよと、云ってしまえばそれまでだけど、でもしつこいようだが自分のために、自分に会うことを第一目的としてそのひとが化粧をするという行為をしてきたと考えれば、何だかとても胸を打つものがある。下手をしたら涙が出そうになる。流れるな、涙。
心でとまれ。
なので世の男たちは、化粧をして自分に会いに来る女性に対して無条件で感謝をしなければならない。
これは礼儀の話ではない。
自分のためだろうが何だろうが、何かの可能性がゼロではないかぎり、彼女の精神にやどるそのスピリットに敬意を表さなければならない。
ありがとう、と頭のひとつでも下げるべきだ。
会ってくれてありがとう。
とても綺麗だよ、と云ってあげたらいい。
ところで僕は、女のすっぴんが好きだ。
化粧っ気のない、くちびるが土気色をした感じの、栄養の偏った表情をとても好もしいと思う。
可愛らしい、と感じてしまうのだ。
とくに、風呂上りのすっぴんは最高だ。
トランプカードの寝巻などを着ていようものなら、一発でやられてしまうだろう。もうノックアウトだ。
助演女優賞は、リンダ・ラブにあげたい。
苦い過去を持っている。
そのため脅しにあい、理不尽な思いをしている。
しかしスペンサーの助力で彼女は決心し、立ち上がる。
その勇気に大拍手。
ブレンダ・ローリングも善ひ。
無邪気でおきゃんでとても知的だ。
もちろんスーザン・シルヴァマンを忘れちゃならない。終盤にようやく出てきた印象ではあるが、作中スペンサーが事あるごとにスーザンの名前を出すおかげでマイルストーン的アイコンになった。最後に全部かっさらっていく存在感はスーザンだからこそ、という気がする。
パーカーは女性を描くのがうまい。
主要な女性をとてもチャーミングに描く。
もしかしたらスペンサー自身が彼女たちを輝かせているのかもしれない。
策略もなく、無意識のうちに、スペンサーの物事にたいする姿勢が、彼女たちの魅力を一層際立たせている可能性はあるぞと踏んだ。
文庫版209ページから繰り出される料理のシーンは本当に圧巻だ。何度も読んでしまう。この作品を何度読んでもこのシーンはいつも繰り返し読んでしまう。料理をしながら事件のことを考えるのだが、ここでの表現方法は、パーカーならではのユーモアの真骨頂だと思う。
忘れられないの。
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