寝るときは　きまってラジオ深夜便　『きえもの』九螺ささら（著）

きえもの

忘れられないの。あの人が好きよ。赤いシャツを着ていたかどうか知らないが、昼間、ラジオの人生相談を聞いていたら、次のような話があった。72歳の女性には、50年前に親の反対で結婚できなかった同い年の男性がいる。そしてその男性のことを72歳になった今でも愛おしく想っている。しかし、つい先だっておくやみ欄でその男性の名前を見つけた。その事実がとても苦しいのだと。自分は結婚していて、子供ふたりはもうそれぞれ独立している。夫はやさしく、健康でまだ生きている。相手の男性も、どうやら結婚をしていたらしい。風の噂で知っている。私は亡くなった彼のことが忘れられない、どうしても一緒になりたかったのに。でも出来なかった。悔やまれる。この心持ちをどうしたらよいでしょう、といったご相談だった。回答者の先生はいつものとおり、ドライでクールだった。実に正論を云う。正論を吐くことって、恥ずかしくないんだろうか。僕だったらいてもたってもいられなくなるほど、恥ずかしい。まあでもどうせ恥の多い人生ですから、今更の感じは拭えないのだが。でも、それでも、出来うるかぎり、正論を吐くような生き方は避けたいと思う。ラジオはおもしろいな、と僕は思う。音楽も流れてくるし、情報もちょうどよい感じで掴める。人々の抱えている様々な悩みに思いを馳せることも出来る。僕はテレビよりもラジオが好きである。読書との相性の良さや親和性の高さを信頼できる。これは正論だろうか。72歳の恋の季節は、まだ終わらないと僕は思っている。というか、死ぬまでその恋心を持っていて欲しいと願ってしまう。棺の箱の中で眠りにつくまで、その想いを胸に抱いているのだ。苦しくて辛いその想いがやがて、懐かしくてあたたかい思い出に変わればいいと願ってしまう。

九螺ささらは思わぬ方向から矢を飛ばしてくる。
次の一行がまったく予測不可能なのだ。
次の一行どころか、句読点の次に来る言葉すら予想を裏切る。
その跳躍力は、グレイス・ペイリーにも匹敵するほどの体幹の強さがあるように僕には感じられる。
九螺ささらのすべての著作を追いかけたい。
怖さと、気持ち悪さと、生きてていいんだという気持ちと、許されているという安堵感がほとんどエントロピー的に押し寄せてくるのだ。
空気中で透明な手拭いを絞って水を出す。
無表情でそれをやる九螺ささらに僕はほとんど釘付けだ。

972307