「おばさん構文」「おじさん構文」というエイジハラスメント。
■エイジハラスメントの軽視
先日の「堀潤モーニングFLAG」で、
いわゆる「おばさん構文」「おじさん構文」の
特長を取り上げていたが、
総じて“おじさん・おばさん”世代の
LINEの書き方の癖を茶化すような内容だった。
「若い世代は、そんな書き方しないよ」的に
同じレベルでコミュニケーションしたかったら直せ
と言わんばかりの10代の声を興味本位で
取り上げていた印象があった。
*
もちろん出席者にそのような発言はなかったが、
「おばさん構文」「おじさん構文」を
タイトルにした時点で既にハラスメントになる
のでは、と想像すべきかと思う。
「あ行」を小文字にするなどの“おばさん構文”、
語尾をカタカナにするなどの“おじさん構文”、
あるいは両者に共通する絵文字の多用、
しかし、
これらはコミュニケーション上は全く問題ない
(もちろん『こんど誘っちゃおうかな、なんちゃって(笑)』
みたいな“おじさん構文”は書くまでもなくNGだ)。
メディアは、セクハラやパワハラには
神経質なほど配慮するのに、
街歩き番組などでは
中高年の言動を笑いの対象にする傾向が
時折見られる。
「それの、どこが問題なの?」と
思われるような点を
“おじさん・おばさん”ならではの
言動として笑いの対象とする。
「おばさん構文」「おじさん構文」の
取扱いにも、それと似た意識を感じる。
■「受け入れる」意識の欠如
しかし私が恐れるのは、
「年齢なんか気にしないようにしよう」
レベルの問題ではない。
「おばさん構文」「おじさん構文」を
旧世代の慣習として笑い、
受け入れることのできない、
その
狭量さこそが諸悪の根源だからだ。
大袈裟だろうか。
いや、
SNSの卑怯極まりない
誹謗中傷も、
学校側が冷酷に嘘をつき通す
イジメの問題も、
社会に居場所が見つからない
不登校や生きづらさも、
目下の問題の多くは、
「受け入れる」寛容さの
不足から起きている
のではないか。
「受け入れる」とは無論、
盲従することではない。
まず受け入れることなくして
本来、反論は始まらないはずだ。
あるいは、弱き点、個性、立場
などを受け入れて許すことで
成り立つ人間関係もある。
*
私の世代の親は、
旧仮名遣いが消えなかった。
しかしあの当時それを
「おばさん文字」「おじさん文字」
などと茶化す空気は、
私にも世間にもなかったと思う。
単純に、学んだ時代が違っていただけの話だ。
明らかにいま日本は、
寛容性のない社会になっている。
それが、空虚で悲しく低劣な言葉を生む
SNSの根底に横たわる。
そして、
世界もいま、この
「受け入れる」ことを失って
いる気がする。
そんな君らも歳を取る
TikTokもいずれ
昔話になる♪
(『不適切にもほどがある!』第6話 昔話しちゃダメですか?)