IMG_4457西野

芸人は、姿勢だ。

芸は修業

これはキングコングの西野亮廣さんが、
「芸人」の定義として語った言葉だ
(先週の『ボクらの時代』)。
そう考える時代なのだと私は、
私のなかの“芸人論議”に終止符を打った。

これまでの私の「芸人」の基本は、
六代目三遊亭圓生師の随筆「寄席育ち」や、
八代目桂文楽師の芸談「あばらかべっそん」にみる芸人、
つまり厳しい修業のうえに築かれた独自の技術に基づく
「芸」を身に付けた者という枠組みを離れなかった。
したがって、ワンアイデアだけでたまたま人気を博し、
その後はバラエティで活躍する自称「芸人」を
芸人とは見ていなかった。

しいて言えば「タレント」である。

芸は姿勢

しかしそんな私も、バラエティに出演する“タレント”の
当意即妙の受け答えには魅力を感じていた。
一般人が思いも浮かばぬジョークや笑いにうながる見方を
一瞬のうちに考えて口にできるしなやかな対応力に。

西野さんは「芸人は姿勢」と定義付けた意図を
「みんながこっち行ってるときに、
こっちもあるよ、って言っちゃう、そういう人」と語った。

実際に彼は「“芸人”はひな壇に出るべきだ」という風潮に反し、
「1回、出ないことやってみよう」と方向転換し、
その姿勢のまま絵本作家となり、さらにオンラインサロン
「西野亮廣エンタメ研究所」の設立へと発展させた。
これらの活動は、確かに「みんながこっち行ってるときに、
こっちもあるよ」と異なる発想を提案することであり、
バラエティで“芸人”たちが発する
ひねりが利いた受け答えと同じ線上にある。

芸は挑戦

西野さんは、著書「新世界」で、次のように訴えている。

「どうして、挑戦すると、めいっぱいバカにされて、
めいっぱい殴られるんだろう?
どうして、挑戦を止められてしまうんだろう?
悔しいな。おかしいよね。」

おそらくもう、このレベルの悩みはクリアしたのだろうが、
「出る杭は打たれる」式の旧態依然とした日本文化に対する
若き西野亮廣の痛烈なメッセージだ。

未だ厳然と存在するエスタブリシュメントに挑戦する存在を
芸人と呼ぶなら、西野亮廣は間違いなく「芸人」である。


しかし、それを芸人の定義にしたら、
マンネリズムの枠内に安住する者を、
私はやはりタレントとしか見ない気がする。

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