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『時代(とき)の跡 - 平成を生きる愛のかたち』のノスタルジー小説 第一部『瞬間(とき)』- 刻まれた記憶の中で01

1. バブルの残響

六本木のクラブは、まだ灯りが煌々と輝いていた。
しかし、かつての熱気は、明らかに薄れていた。

「やっぱり、転職します」

グラスを傾けながら、麻衣は言った。
証券会社の華やかなOLから、一般企業の経理職へ。
周りの誰もが狂気と呼ぶ選択。

「冗談でしょ? あなたが?」

同期の沢田が、目を丸くする。
麻衣はかつての花形部署のエースだった。
バブル期、毎晩のように法人客との接待をこなし、契約を取ってきた。

「本気よ。時代が変わるの、分かるでしょ?」

一年前、誰もが右肩上がりだと信じていた。
土地は値上がりを続け、株価は天井知らず。
夜の街は、札束で狂っていた。

でも今は——。

「麻衣さん」

振り返ると、かつての顧客、田中部長が立っていた。
スーツの襟が少しくたびれている。
会社の経営状態が厳しいという噂は、聞いていた。

「田中さん、お久しぶりです」
「うちの株、随分下がっちゃってね」

苦笑いを浮かべる田中の横顔には、深い皺が刻まれていた。
つい二年前、高級クラブで豪快に笑っていた彼の姿が、遠い記憶のように感じる。

「奥さんと、仲直りできました?」
「ああ…家で晩酌するようになってね。意外と、それも悪くない」

麻衣は軽く頷く。
高級料理店での接待の代わりに、家での質素な食事。
それは決して悪いことではなかった。

翌朝、証券会社の机を片付けていると、一枚の写真が出てきた。
入社式の日の集合写真。
バブル最盛期の1990年。
全員の笑顔が、眩しいほどだった。

「これ、捨てるの?」

声をかけたのは、新入社員の山下だった。
去年入社したばかりの彼は、バブル期を知らなかった。

「いいえ、持って帰るわ」
「先輩、次の会社でも輝いてください」
「ありがとう。でも、これからは地味に生きるつもり」

山下は不思議そうな顔をする。
麻衣は微笑んだ。

「時代が変わるのよ。派手さは消えていく。でも、その分、本当に大切なものが見えてくる」

退社の日。
最後に訪れた喫茶店で、一通の手紙を書いた。
宛先は、両親へ。

『バブルの夢から覚めました。
でも、それは悪いことじゃないの。
むしろ、やっと自分の足で立てる気がする。
派手な世界で見失っていた、本当の自分が見えてきた。
これからは、等身大の幸せを探していきたい。』

喫茶店のラジオから、小田和正の「言葉にできなくて」が流れていた。


バブル期には気付かなかった、その歌詞の温かさが、今は心に沁みる。

外は小雨が降っていた。
傘を広げて歩き出す。
六本木の街は、まだギラギラと光っている。
でも、どこか懐かしい風景に見えた。

ビルの谷間に、小さな虹が架かっている。
それは、新しい時代の予兆のように感じた。
終わり。

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