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エッセイ 悲しき引き込み線
子どもの頃は「ひっこみせん」と呼んでいた。国鉄(今のJR)から工場へ直接引き込まれた貨物用の線路のことである。正式には「専用線」と言うらしい。その引き込み線はデンソーの工場へのものであった。
私が生まれ育った刈谷は江戸時代の城下町である。大正時代からはトヨタ系の会社の企業城下町となった。豊田紡織の誘致以来、豊田自動織機、トヨタ自動車(後に豊田市へ移転)と続いて現在の繁栄につながっている。トヨタ自動車本体がいなくなっても、部品会社は刈谷に残った。デンソー、アイシン、トヨタ車体、ジェイテクト・・・。その中で最大の企業がデンソーであった。
私の住んでいた家から少し離れたところをその引き込み線は通っていた。正確に言うと「通っていたらしい」となる。残念ながら私には記憶がない。ただ線路の痕跡だけは見た記憶がある。貨物列車が走っている姿とか、踏切がどうなっていたかという記憶はない。古くて動かなくなった貨車が放置してあるのを見たことがあるような気がするだけである。20歳ぐらいの時には、レールはもうなくなっていたように思う。そして現在は跡形もなく消え去っている。そこに昔引き込み線があったことすら忘れ去られている、というより知らない人の方が多いのではないか。
私に記憶がないということは、幼い頃、線路はあっても列車はすでに運行されていなかったのではないかという疑問が湧く。なぜか。
現在の私は、引き込み線と聞くと、懐かしいという気持ちになるが、小学校の頃は「こわい」という気持ちになった。それにはわけがある。小学校1年の同級生に、右足の膝から下が義足の生徒がいた。例の引き込み線ではねられたのだという。詳しくは知らないが、線路で遊んでいて逃げ遅れたのだろう。引き込み線はそういう場所を通っていた。子どもの通学路であり、遊び場所にもなっていたところを突っ切って走っていた。線路への立ち入りは比較的容易だったように思う。1960年代初め、高度経済成長が始まった頃は、子どもの安全より経済効率が優先された時代だったのだろう。その子の右足はその犠牲となった。その話を聞いて以来、私には引き込み線はこわい、ということが印象づけられてしまったのである。その事故の後、危険だということで列車の運行が中止となったのではないか、というのが私の推測である。
その少年が今どこに住んでいるかは知らない。引き込み線がなくなり、人々の記憶から消し去られても、少年の足の怪我と心の傷が消えることはない。