エッセイ 桜 一輪
小学校1年の春、つまり小学校に入学してすぐのことだ。さくら祭り写生大会というものがあって(学校だけでなく、市全体の行事として毎年盛大に行われていた)、私たち1年生も絵を描かされた。写生とはいうものの、教室内で描かされた。桜に関する絵といっても、何も思い当たるものがなかったので、少し前に先生に引率されて入学したばかりの校庭を散策した時の絵を描こうと思った。校庭には桜の木もあった。桜の木を5、6本描いて、その下に、先生の後を10人ぐらいの生徒がぞろぞろと歩いている姿を描いた。空にお日様を描くのも忘れなかった。
そしてその絵が市長賞を取った。全市民向けの会場で展示された。私はその時風邪をひいていて見に行けなかったが、両親と兄が見に行って喜んで帰ってきた。私は自分の絵のどこがよかったのか、まるでわからなかったが、母親が言うには「桜の花をひとつひとつ丁寧に描いたのがよかったんだよね。」と言った。そう言われればそうであった。桜の花をひとつひとつ花びらまでつけて描いた。意図があったわけではない。それ以外の描き方を思いつかなかっただけだ。そういう描き方をしたものだから、当然桜の花はたくさんは描けない。せいぜい、1本の木に10個ぐらいの花しか咲かせられない。木の数も実際より少ないし、花の数はもっと少ない。そこはむしろ私が気に入らなかった点なのだ。他の生徒が描いた絵を見ると、もくもくと雲のように桜の花を描いていた。その雲をピンクに塗りつぶして、満開の桜を表していた。なるほど、ああいう手があったのか、あれなら、花がたくさん咲いている感じが出せたのになあと後悔した。しかし、母親は、そこがよかったんだという。子どもの私にはその理由はよく理解できなかったが、今なら理解できる。桜の花をひとつひとつ花びらまで丁寧に描いた私の絵の方が優っていたと。
桜は集団の花である。ひとつひとつの花を愛でるのではなく、木全体を見て、ああきれいだ、と感動する。ともすると戦前の全体主義、軍国主義の象徴のように扱われる。一斉に咲いて、短い期間で一斉にサアーっと散っていく。その一斉さ、潔さが尊ばれる。しかし、やはりひとつ、ひとつなんだと思う。ひとつひとつの花を慈しむ、その気持ちが幼い私の心にあったとは言い難いが、期せずしてそれが表現できていたなら、それが評価されたことは喜んでいいだろうし、少しは胸を張ってもいいのかなと思う。
桜が咲くのが待ち遠しい今日この頃である。ちなみに市長賞の景品はプラスチック製の折り畳み式ハンガー(ブラシ付き)であった。
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