見出し画像

noteを始めます、次のステップのために

還暦からの大転換

還暦とは60年で十干十二支(じっかんじゅうにし)が一巡して〝もとの暦に還る〟こと、再び赤子に還り次の人生を始めること、人生の大きな転換期のことだそうです。

私の場合は3年前に還暦を迎えて、その年の暮れに外出先で倒れ、ドクターヘリで運ばれて、緊急手術そして入院という還暦の大転換がが始まりました。

病名は大動脈解離という結構致死率の高い病気でした、三層になっている血管が乖離して血管を塞ぎ、血液が流れなくなり死亡するという病気です。とにかく早い時間で治療を行わないと死亡したり、脳に酸素が届かず重い後遺症が発生したりします。

私は病院のベッドで目が覚めました、身体からいろいろなチューブやコードが出て機械とつながっていましたが、とりあえず思考はできたし身体の痛みもありませんでした。

どうやら私は強運だったようです。

その後一月余りで退院はしたものの、体力と筋肉はほとんどなくなり左腕は肩から上にあがりませんでした。

結局次の年は体調回復に費やすことになました。そしてやっと体調が戻った翌年はは世界中がコロナ禍の中で喘いでいました。

それは原因も対処法もわからない未曾有の事態です、緊急事態施宣言が出され、学校や会社に行かれなくなり、NETを使って仕事をしたり、授業をおこなうスタイルが始まりました。そんな中アメリカ大統領選挙もおこなわれ、他所の国のことなのに世界中で大騒ぎをしていました。

今までの常識が変わり、経済が変わり、働き方に改革が起き、家族のあり方が変わりました。

本当に還暦からの大転換になりました。

私にとっては2019年を境に景色がまったく変わってしまいました、まるでリセットされたように。

仕事も人脈も働き方も経済も気持ちが良いほどきれいに消えてしまいました。
残ったものは家族と今までに培ってきた知識と経験とそれらで磨き上げてきたセンスとあの世から帰って来れた強運だけでした。

家族以外形の無いものばかりです、これから必要なものは形の無いもかもしれません。

どうやら私は形の無いものを使って未来へ行かなければならないようです。

なのでnote始めます。

よろしくね。


私がしてきたことを少しお話します。

30年ほど前、1988年に相方と二人で設計事務所を始めました30才の時です、日本で一番ステキな建築家の事務所にすると決めて名前もアーキテクト・ステキナ・オフィスとしました。

その時決めたことは、下請けやデザイン性が無い仕事なんて腕が鈍るので一切やらず、価値のある仕事をして評判になってTVや雑誌に出て、40歳でポルシェに乗っちゃって、事務所も日本一カッコよくって、建築好きなカッコいいスタッフと共にステキで美しい作品を作り出して建築賞なんて貰いすぎて断って、干支が一回りしたらお互い違う世界でも活躍するために発展的解散をして、どちらもA.S.Oを冠した事務所を造ってブランドにして世界へ出るんだ、と壮大な計画でした。


干支が一回りした頃、誰もが息を飲む美しい事務所の前には黄色と白のポルシェが止まり、事務所の棚には建築賞のトロフィーが並び、アップルのコンピューターで仕事をするカッコいいスタッフがいました。

建築雑誌に作品が載ったり、テレビの取材を受けたり、CGアーチストそして展覧会をしたり、現代美術のアーティストとコラボして公共施設に作品を残したりと相方と二人でそれなりに活躍していました。
 
下請けをしないのでお金がなくて家庭が崩壊したり、人の倍働く日常に体がストライキを起こして六ヶ月間毎日嘔吐したり血を吐いたり、結核になったり、仕事のトラブルで裁判沙汰になったりもしました。今思えば半分以上が失敗と後悔と舌を噛んで死んでしまいたい恥ずかしいことばかりです。

「夢が無かったら自殺してるよねえ」と笑いながら約束通り発展的解散をしました。
2001年のことです。
 
その後私は建築家をしながら大学の先生になり、相方は建築家をしながらビフォーアフターの一番人気のタクミになりました。当然、紆余曲折、ジェットコースター、谷あり山ありの行程ですが。

大学も辞めて、谷を彷徨っていたある日「もうぼちぼち、出たいんですけど。」と夢の中で女の子の声が聞こえました。
「えっ」とわたし、
「もう、いいかげんいいでしょ、9月18日に行くからね」
「ちょっと待て、私は50も過ぎたし体力的にも経済的にもあなたを育てる自信など無いよ」
「あなたに迷惑をかける気なんて無いし」
「おい、ちょっと待って、、、、、」
目が覚めた、カレンダーは3月の終わり、言われた日まで六ヶ月あまり、無理じゃん。

翌年7月28日に女の子が生まれた、言われた日から10月10日、お前何者だよ。

私は52歳だった。

それから未来から来た女の子のために毎日おしめを替えてお風呂に入れて、ミルクをあげて昆布とカツヲブシで出汁をとって離乳食を作り、七五三をして毎日神社でお参りしながら幼稚園に歩いて送り迎えをして過ごした。

カッコいい建築家は情けないイクメンになった、厚生労働省が設けたイクメン認定もとった。

周りは若いお母さんとお父さんばかりだった、「〇〇ちゃんは小学校は私立ですか?」と聞かれた。
「えっ」とわたし。

小学校のことなんてまるっきり考えていないし、いじめにあったらとっとと辞めちゃって自宅学習すればいいと思ってたし、大学で教えていてなんの役にもたたないので日本の大学なんてゆく必要無いと思ってたし、、、、、

おまけにある日超美人の霊能力者に言われた。
「この子は中学くらいでスペインか南仏あたりで芸術の勉強をしてアーチストになるよ」

「ほんとかよ」
「それも大活躍、いいでしょ」

よく無い、離れたく無いし、、、 

そのことを妻に話すと、「じゃあ、お金持ちで世界を駆け回る職業に就かないとね」と言われた。

「えっ、、、」

何があるんだろう?

何気にネットを見ていて80歳を過ぎてバリコレのランウェイを颯爽と歩く爺さんが
「情熱があれば幾つになっても老人では無い」と言っていた。

CMの中で80歳を超えた現役パリコレモデルは「人生はいつでもスイッチできるわ、情熱よ」
と言った。

CMで黒ウーロン茶を飲んでるスーパーモデルは資産数十億だって、誰かが言った。

娘は一般的なかわいいとは違うが個性的な東洋美人だし、身長はクラスで一番高く足の長さは身長の半分くらいだ、悪く無い。

わたしは身長185センチ63キロ60歳にしては悪く無い体型だ、もう少し絞って筋肉を付けてブルース、リー体型にすればなんとかなるかも、肩書きも元建築家で元大学講師、都市景観アドヴァイザーやデザインアドヴァイザーもやり、料理ができて東洋哲学にも精通している、いいかもしれない。

あと冒険家か登山家で文筆家であればさらにいい、なおかつ地方創生家というのも悪く無い。

英語は話せないがすぐにAIが助けてくれるだろう。服のセンスは悪く無いので、納屋に眠っているポルシェをレストアして、美しいバイクを手に入れて今までに設計した美しい建物の前で写真を撮ってインスタに出しつずけて評判になれば、、、

なにせ52も年の離れた親子モデルなんてそうそういないだろう、紆余曲折の人生も深みがあると捉えれば競合する者はさらに少ない、独自性まるけだ、、、よし。

親娘パリコレ計画のスタートだ。

58歳の誕生日にトレーナーと共に体作りを始めた、ブルースリーには及ばないが30代の若者と同等のパフォーマンスの肉体は手に入れた。

59歳の誕生日に登山に行って転倒、左手骨折で登山家は少々先送りになったが美しいバイクはやって来た。

60歳の誕生日は文筆家になると決めて女性文筆家に師事した、そして地方創生家を目指して仲間と企画を始めた。

そして11月の終わりに大動脈解離でドクターヘリで運ばれた。


そして全てを失った、夢以外は

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?