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エッセイを書くのは解説文よりも難しい

先日、たぶん人生初のエッセイをnoteに書いた。
「たぶん」というのは、私はエッセイの定義をよく知らないからである。

エッセイを手持ちの国語辞典で引いてみると、「自由な形式で自分の見聞・感想・意見などを述べた散文」であるという。

そのエッセイかもしれないnote記事は、『私は「なんで言ってくれなかったの?」とは言わないように心に決めた。』という意見を述べていて、別に凝った形式をしているわけでもないから、エッセイのうちに入っていると思う。

* * *

もともと、私は解説記事を書きたくてnoteを始めた。
せっかく調べて書いたからには、閲覧数が欲しいと思うのは私に限った話ではないだろう。
そこで、読み終わった他の方のnote記事に「スキ」することで自分の存在をアピールし、閲覧数を増やす作戦をすることにした。

作戦のためにスキした記事の中には、普段だったら自発的には読まないであろうエッセイも多数含まれていて、それらを読んでいるうちに自分でもエッセイを書くことを思い付いた。

理由は2点ある。
1つは、日頃感じている「思うところ」をエッセイという形で書き残し、さらに意見を述べることで、私の哲学的なものを確認したかったこと。
もう1つは、事実確認が必要な解説記事よりも、エッセイの方が量産しやすいと考えたこと。

前者は堂々としたものであったが、後者の方はnoteで注目されたいから記事をいっぱい作りたいという、卑しい気持ちからであった。
私は自己顕示欲が人一倍強いので、その点は目をつぶってほしい。

* * *

こうした思惑でエッセイを書くことにしたわけであったが、想像していたよりも数倍、エッセイを書くことは難しいことだった。
数行は書けるが、その後が頭に出てこないのである。

私はこれまで様々なものを書いてきた経験があるから、文書を書くことに自信があった。
だから、エッセイを書くのも余裕であると想像していたのだ。

あまりにもエッセイを書けないので、一度タイピングを止め、何故書けないのかを考えてみることにした。

すると、今まで書いてきたものは論文的なものやマニュアルといったものであり、ほぼ全てが解説文であって、エッセイのような自由な文章は経験してこなかったのだということに気付いたのだった。

考えてみると、解説文とエッセイはまったく異なる文章だ。

解説文は一直線の書き方が求められる。
できるだけ体系的に、個性的な言い回しをせずに書くことが望ましいだろう。

しかし、エッセイは違う。
1つの文章であるので筋としては大きく一線なのであるが、私の感じたイメージとしては、それは直線ではなく時に曲がり、または分岐し思わぬ形でつながるものだったのである。

他にも、解説文では「だと思います。」といったような断言できない表現は使わないが、エッセイでは使っても特に問題はないという違いもあるだろう。

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気付きを得た後、脳みそをフル回転させて、私は何とか初めてのエッセイを書くことができた。
自信作ではないが、とにかくエッセイを1つ書き終えたのだから、これで良しとすることにした。


下のリンクが初めて書いたエッセイである。
読んでいただけると嬉しい。

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