TheBazaarExpress114、『ペテン師と天才~佐村河内事件の全貌』、6章、とにかく大きなことをしでかしたい~S極・野望に満ちた男
・高度成長時代の申し子
「佐村河内とは小学校時代の同級生でした。家も近かったから、小学校1,2年のころはお互いの家をしょっちゅう行き来して遊んでいました。明るくてやんちゃなやつでしたよ。あの時代だから遊びといえばウルトラマンやゴジラごっこだったり粘土遊びでしたね。佐村河内はうちの庭の池に落っこちて、パニックになったこともありました。彼の家に行ってもピアノは見たことはありませんでした。自叙伝の中には『四歳の時から母親から厳しいレッスンを受けた』と書いてあるのを私も読みましたが、そんなシーンもみかけなかったな。子ども時代の佐村河内の思い出の中で、音楽の要素は全くありませんでした」
広島市内にある広島ホームテレビの報道マン・河野高峰は、佐村河内と遊んだ少年時代をそう振り返る。
佐村河内の生れは1963年(昭和38年)9月21日。父克成、母洋子の長男として生れ、4歳下に弟の亨がいた。
この時代はまさに、戦後の高度成長期の真っ只中だった。誕生の3年前の1960年には池田勇人内閣が「所得倍増計画」を発表し、1959年から73年までの実質GNPは年平均10・9%も増加。国民は終戦直後から続いていた物質的な貧しさから解放され、日本は経済大国への道をまっしぐらに走り始めていた。
この年の流行歌は、ニキビだらけの顔にほくろがトレードマークの坂本九が歌う「見上げてごらん夜の星を」や、梓みちよが歌う「今日は赤ちゃん」。11月には史上初の日米テレビ中継の画面でケネディ大統領暗殺のニュースが報じられ、12月にはプロレスの人気者力道山が刺殺されている。
佐村河内や河野が住んでいた佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区)は、この時代には広島市のベットタウンとして宅地造成が急ピッチで進み、人口急増の地区だった。1960年代初頭から人口増加が始まり、毎年の増加率は8~9%を記録。60年と65年の国勢調査を比べてみると、人口で35・4%、世帯数で50・7%の増加を記録。1980年には国が定める市制施行要件である5万人をはるかに超えて、人口8万7000人超の「人口日本一の町」となっている。
二人が通った五日市南小学校はマンモス校で、一学年6クラスあって毎年のように児童数もクラス数も増えていた。中学に進学するときに佐村河内は町内の高台の地に引っ越して三和中学に進んだが、河野が進んだ五日市中学校は、1学年が14クラスもあるほどだった。それだけに、高校や大学入試は激戦となる。「受験地獄」「教育ママ」「塾の流行」等、教育の過当競争が始まるのも当然のことだった。
佐村河内が小学校に進む1970年(昭和45年)は、大阪万博の年だった。
3月15日から9月13日まで大阪の千里丘陵で開かれた戦後最大の国家イヴェントは、77カ国が参加して621万人の入場者を記録。外国からの観光客も170万人を動員して、全国民に「国際化の時代」を認識させる契機となった。
子どもたちの人気はスポーツ根性路線のアニメ番組だった。少女雑誌の連載からアニメ化された女子バレーボールの「サインはV」や「アタックNo1」。野球に生きる父子を描いた「巨人の星」。その他「柔道一直線」(実写)やキックボクシングを描いた「キックの鬼」、主人公のライバル力石徹が誌上で死亡した際にはその告別式が実際に行われた「あしたのジョー」などが、圧倒的な人気を誇った。
66年にはイギリスからビートルズが初来日して日本武道館で3日間のコンサートを行った。68年にはフォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」がヒットして、若者たちの間ではフォークソングがブームとなった。それまでの歌謡曲は詩と曲は専門家が作るものだったが、70年代を迎えてから吉田拓郎や井上陽水らの出現により、「自分の言葉とメロディで歌っていい」時代になったのだ。その後80年代に花開くサブカルチャーの時代の萌芽があった時代といっていい。
河野の証言に含まれる「ウルトラマン・シリーズ」の放送が始まるのは66年のこと(「ウルトラQ」が1月2日から7月3日まで放送。その後「ウルトラマン」が7月17日から67年4月9日まで放送)。その後「ウルトラセブン」、「帰って来たウルトラマン」、「ウルトラマンA」とシリーズは続き、81年3月に第三期ウルトラシリーズが終了するまで断続的に放送は続いた。
それまで家庭の三種の神器といえば白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫だったが、それに代わって車(カー)、クーラー、カラーテレビの「3C」が三種の神器と言われるようになった。ことにカラーテレビの出現により、テレビ番組はバラエティに富むようになり、子どもたちの人気や流行は、常にテレビ番組から生れたといっていい。
つまり佐村河内の世代は、国際化という新しい風が吹き始めた日本にあって、物質的な豊かさを最初に享受した「高度成長時代の申し子」であり、アニメやフォークソングに代表されるサブカルチャーの台頭を真正面から受けた世代といっていいだろう。
・一攫千金を目指す広島の気風
一方、広島という土地が持っている特色と、そこに生きる人々の気質はどうだろう。
「広島県人は、一般的に勝気でプライドが高いと言われています。そして一攫千金を目指す野心家タイプが多いともいえると思います。それは学術的に証明できるような性質のものではありませんが、二つの理由はあげられると思います」
広島で郷土史を研究する佐々木卓也は言う。
そのプライドを支える一つは、時代は遡るが1894年(明治27年)8月1日に宣戦布告された日清戦争期に於いて、大本営が東京から広島に移され、明治天皇と帝国議会が広島にやってきた歴史にあるという。
その前年の1893年(明治26年)、西日本の大動脈となる山陽鉄道が広島まで延びて、大陸での戦闘の準備をしていた帝国陸軍と海軍にとっては広島が格好の作戦用兵の根拠地になった。現在のように通信交通事情が発達していない当時にあって、東京にベースを置いていたのでは迅速な軍事行動がとれない。そう判断した明治天皇は、「迅速な命令と戦場の兵士と労苦を分かつ」という理由から、9月8日に大本営を広島に移すと宣言。同15日17時20分着の列車で広島駅に降り立って、市民からの大歓迎をうけている。同27日には西練兵場内に架設議事堂の建設も始まり、10月15日には議員が召集された。明治天皇は日清戦争が終結する1895年(明治28年)4月27日まで(講和条約は4月21日に締結)約7カ月間、第五師団司令部二階の中央会議所で生活した。
歴史上天皇が住んだのは京都(長岡京を含む)、奈良と東京以外はこの時の広島だけだ。広島はこの7カ月間、事実上の日本の首都になった。はるか120年前の出来事とはいえ、広島県民にはその時の記憶とプライドが、形を変えながらも世代を越えて伝承されていると佐々木は言う。
もう一つ「野心的」であることの証左には、明治期の移民の多さがあげられる。
1884年(明治17年)にハワイとの間で成立した農業移民協約によって、翌年から最初の渡航者が海を越えて南国を目指した。この時全国から集まった移民の数は951人。その中で広島からの移民は156人、約16%を占めた。さらに、1894年(明治27年)までの10年間にハワイへは約1万1000人を送り出し、全国からの移民の三分の一は広島県民が占めていた。「日本人研究」の「広島県人編」によれば、その気質は「決断が早く新しい環境に比較的早く馴染める。積極的な躁鬱タイプ」と記されている。つまり、一攫千金を目指す野心家タイプが多いということになるだろう。
その他に広島の県民性を大きく左右したのは、やはり「原爆の被害からの復興」だ。終戦直前の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、「リトルボーイ」と名付けられた一個の原子爆弾が投下され、巨大な轟音とともに一瞬の内に広島を消滅させた。この年11月末に広島県警が発表した被害者の規模は、
・死者、約7万8000人
・重傷者、約1万人
・行方不明者、約1万4000人、
・罹災者、約17万7000人
・合計約30万7000人
卑近な例でいえば、2011年に起こった東日本大震災での死者行方不明者が1万9000人あまりであることを比べても、原子爆弾の被害が尋常あらざるものであることがわかる。そこから復興したことも、広島の県民性に大きく影響していることは間違いない。
外から広島を見たときのイメージとしては、1972年に週刊サンケイ誌上で連載が始まり、73年からシリーズで映画化された「仁義なき戦い」のインパクトが大きい。この物語は戦後の広島で起こった実際のヤクザの抗争事件を題材にしている。その特色は、実在のヤクザの組や人物を全て実名で書いていることにあった。物語の土台になったのは、広島県呉市の美能組組長美能幸三が網走刑務所内で記した手記。獄中でたまたま読んだ文藝春秋誌に中国新聞の記者が書いた「暴力と闘った中国新聞」という記事があり、自分に関する表記があまりにでたらめだったことに怒り心頭で書きなぐったものと言われている。週刊サンケイの編集者がこの手記を入手して連載を打診したときに、「実名でなければ断る」と条件をつけたという。
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