TheBazaarExpress119、『ペテン師と天才~佐村河内事件の全貌』10章、メディアの狂宴
・いい加減な取材ならお断り
「佐村河内とは取材中に何回も喧嘩しました。彼は『徹底的に取材して本当のことを書いてくれ』という。『それができないなら取材してくれなくていい』と言うんです。こちらも喧嘩腰になって、『だったら徹底的に取材させてもらいます』と言い返しました。まるで私と勝負するかのようでした。その姿勢を見て、私は自分と似ているなぁと思ったものです」
ジャーナリストの塩田芳享が語る。塩田は2010年の春に佐村河内のことを知り、光文社の「女性自身」編集部に企画をあげた。「シリーズ人間」という人物ルポルタージュのページにぴったりの人物だと思ったからだ。
企画書には、自伝「交響曲第一番」の帯に書かれていた五木寛之の言葉を引用した。
―――もし、現代に天才と呼べる芸術家がいるとすれば、その一人は、まちがいなく佐村河内守さんだろう。
命をすりへらしながら創るその音楽は、私の乾いた心を打たずにおかない。
ヒロシマから生れた人間への鎮魂曲が、彼の曲であり音である。
音符だけでなく活字からも、その世界が静かに起ちあがってくるのを感じた。
「この言葉があったから、当時はどこの編集部でも企画は通ったはずです。出版界においては金科玉条でした」と塩田は言う。
企画が通ったのち、佐村河内の連絡先を聞くために、「交響曲第一番」の版元である講談社に電話をした。すると、担当編集者だった浅間雪枝が言った。
「私が取材の段取りをしましょう。佐村河内さんに繋ぎます。何でも私に相談してください」
そう言って、インタビューの日も横浜・妙蓮寺の佐村河内の自宅までついてきてくれた。雑誌とは関係のない版元の編集者がここまでアテンドするのは珍しい。
そして冒頭のやりとりから取材は始まった。
取材者が現れた時に、最初に歓迎の意を示さずに、「いい加減な取材なら受けない」「自分が認める媒体でなければ出ない」と言いはるのが佐村河内のやり方だ。テレビクルーならば、「インタビューはお断りします。ただありのままの姿を撮ってくれるなら取材をお受けします」と言ったりする。その理由は、「障害や発作のことを滔々と喋るのは嫌だから」だと言う。
歓迎されるよりもむしろ拒絶されたほうが取材のモチベーションがあがるジャーナリストの性を、まるで弄ぶかのような対応だ。
それでいて、塩田のインタビュー中はまさに饒舌だった。
「佐村河内は手話通訳の高橋章さんが追いつかないほど饒舌に話しました。作曲作業のこと、聴覚障害のこと、轟音のような耳鳴りのこと、作曲作業中に失禁したこと。途中母親のことを話しだしたときに、私は二度涙しました。その時佐村河内は、『本当に信じてくれますか?』と、瞳に涙を貯めて言いました」
塩田は、この年8月京都で行われた「交響曲第一番HIROSHIMA」のコンサートにも駆けつけている。橋本たちが奔走した手作りコンサートだ。そこでは楽屋で佐村河内の両親にも会った。母親の姿を見て塩田は思った。
―――あれ?自伝で書かれている厳しいお母さんの雰囲気とは違うな。
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