TheBazaarExpress100、ソフトバンク、光通信のあとはオレに任せろ~孫正義の子孫たち
「株式公開延期」
案の定、証券会社の動きは早かった。ちょうど東京の桜が綻び始めた三月三十一日、光通信が中間決算で営業赤字を出したと発表した翌日に、都内にある新興企業A社の経理担当部長、吉田正彦(仮名)のもとに担当証券会社からアポイントが入った。
やってきたのは、ふだんはめったに顔を見せることのない公開引き受け部の部長を含む数名の証券マンだった。
「御社の八月上場予定というスケジュールを見直していただけませんか。ネット関連の株価が光通信を筆頭に下落しそうなので、この時期の上場では値がつかないかもしれません。御社の携帯電話販売事業の収益構造の見直しが必要になりました」
一年前にやはりネット系の他社からかつての上司の引きでA社に移籍し、昨年九月から東証二部上場を目指して連日ハードな仕事をこなしていた吉田にとって、それはある程度予想された事態だった。遡ること数日前、月刊誌や週刊誌に一斉に掲載され始めた一連の光通信バッシング報道が気になっていたのだ。
「わかりました。光さんとの取り引き条件は見直します。万が一のことがあっても経営に支障がないように、この時期を乗り切れるように頑張ります」
吉田の言葉を聞きながら、隣りで今年四十歳になる社長は腕組みしたままジッと証券マンを見据えている。会社を設立して二年、携帯電話を大手量販店に卸す事業が軌道に乗り、売上げ四十億円純利益二億円に成長させてきたところだ。事業が赤字でも公開させてしまうマザーズやナスダック・ジャパンではなく、二部の上場を目指しているプライドもある。今まさに事業が市場に認められるか否か、瀬戸際なのだ。心中穏やかであるはずはない。
そんな社長と吉田の心中を察してか、帰り際に引き受け部部長は含み笑いを交えてこうも言うのだった。
「でもここさえ凌げば、半年後くらいには市場も落ち着きます。その頃には上場もなんとかなりますよ」
やっぱりバブルだった
二〇〇〇年四月、巷ではネットバブル崩壊が叫ばれている。九九年九月頃を境に上昇の一途をたどったネット関連企業の株価が三月の声を聞いたとたん一斉に崩れだした。
特に、市場をリードして来た光通信とソフトバンクの急落ははなはだしい。ネット株暴落の日として歴史に記憶されるであろう四月十七日、ソフトバンクは売りが三百万株に対して買いが一万株、光通信は同百九十万株に対して同千株。当然取り引きは成立せず、市場にはウリ気配が漂った。その数日後、やっと付いた値は最高値の約十分の一。それでもソフトバンク・孫正義は、「キャッシュフローは順調だ」と強気一辺倒。対する光通信の重田康光社長は、少年時代の残酷なヘビの飼育のエピソードや傘下代理店を弄ぶ経営手法が暴かれ、「もはや死に体」との見方もある。
———やっぱりバブルだったか。いつかは崩壊すると思っていたサ。
市場からは、そういう声しきりだ。
だが僕には、この事態を他人事には思えない記憶がある。
「神山さん。もう昨日までのように物件を担保にお金を貸すことはできなくなりました。来月からは返済も始めていただかないと」
今から約十年前。銀行の担当者が電話口でそう切り出したのが、僕自身の不動産バブル崩壊の始まりだった。当時三十歳。年商約九百万円、年収は約三百五十万円程度だったろうか。その程度のフリーランスに、不動産会社はいそいそと日参し、銀行は申し出るままに融資をしてくれた。購入したのは事務所用の広めの物件と一人暮らし用のワンルームの二軒。両方とも頭金ゼロ、しかも最初の物件は購入したあとの値上がりを担保に、追加融資もしてくれた。電話をすれば百万円単位でお金が口座に振り込まれる。今思えばつかの間の幻だったのだが、社会に出てもボーナスに縁がなかった僕には、夢のような日々だった。
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