お金で買えないものは贈与としてやってくる|60冊目『世界は贈与でできている』
近内 悠太(2020, ニューズピックス)
本を読んで思ったこと3つ
Facebookの知人のタイムラインでこの本を知りました。
どんな本なのかブクログやらなにやらで調べてみたところ、寄付募集の仕事や、弟の経営するお弁当屋のマーケティングの参考になりそうだなと思いました。
実際に読んでみると、まさしく予想通りたくさんのヒントがあったわけなのですが、それを一つ一つ説明したところで、読む人はきっと退屈極まりないことと思ったので、3つだけ、思い浮かんだことを話したいと思います。
贈与と偽善と自己犠牲ー映画「ペイ・フォワード」
仕事で寄付募集の仕事をしているのですが、寄付していただいた人にアンケートに回答してもらったところ、「寄付の動機は?」という質問に対して一番多い回答は「感謝の気持ち」でした。
贈与は”返礼”として始まるのだそうです。
その返礼は感謝している相手に向けられなくても良いといいます。
ですから、在学中にお世話になった学校への恩返しのつもりで寄付をするのも良いのですが、現在、学校に通っている学生への奨学金として使ってほしいと寄付をする人もいます。
新卒で入った会社の先輩たちは、貧乏な新入社員であった僕をよく飲みに連れて行ってくれました。
お金を出させてもらった記憶がありません。
「俺も先輩によくおごってもらったから、それをお前に返してるんだ。お前が先輩になったら後輩におごってやればいいから」と教えられて、そうするようにしてきました。
贈与とは等価交換ではありません。
「おごってやるから、俺を尊敬しろ」とか「俺の評価をあげろ」といった魂胆があるのであれば、それは純粋な贈与ではなくて計算的贈与、すなわち”偽善”になります。
人は”反対給付義務”という感情があり、何か意味もなく贈与を受けてしまったときに「返礼せねば」と思うのだそうです。
その返礼が贈り物をくれた差出人ではなく、別の人に対しての返礼、先輩にお世話になったように、今度は自分が後輩に贈与をする、そうした贈り物の連鎖を「ペイフォワード(pay it Forward)」と言います。
2000年製作の「ペイ・フォワード 可能の王国」という映画があります。
主人公のトレヴァー少年は自分では贈与を受け取っていない、すなわちプレヒストリーを持たない状態から人に与えることをはじめてしまったので、贈与ではなくて”自己犠牲”になってしまった。
「だから、ペイフォワードのスタートが自分であることをインタビューで告白した直後に死ななくてはならなかったのだ」と筆者である近内氏は言うのですが、それが一体どういうことなのかもうひとつピンとこなかったので、何はともかく映画を観てみることにしました。
トレヴァーは学校の課題で、くそったれな世界を変えるために、3人に善意を送っていくことで世界を変える方法を考え出します。
自分でルールを決めて、それをノートに書きつけることによって、思考は確実に行動につながっていきます。
つまりモチベーションが生まれます。
しかし行動したからといって、必ずしも簡単に望む結果にはなりません。それでも他者の行動に多少の影響を与えることになります。
一度目は怖くて躊躇してしまい、友だちを助けることができなかったのですが、自分のおせっかいによって、結果的に行動を起こしたシモネット先生の姿に触発され、モチベーションが恐怖を超越し、今度こそ友だちを助けようと一歩踏み出したことによって死んでしまう結果となりました。
振り返れば、自分が決めたペイフォワードのルールはモチベーションであると同時に呪いでもあったわけです。
この結末を近内氏は、少年がペイフォワードをスタートさせた起点であり、その前に何も与えられていなかったので、贈与の定義に当てはまらず、自己犠牲でしかなかったことから死ななくてはならないのは必須だったのだ、と解釈しているのですが、果たしてミミ・レダー監督は観客に向けてどんなメッセージをこの映画に込めたのか僕にはわかりませんでした。
余談ですが、ボン・ジョビが、アル中で暴力をふるう(のにカッコいい)、少年の実の父親として登場したのはびっくりでした。
アンサング・ヒーロー、
「シーシュポスの神話」と「PERFECT DAYS」
ものごとのつり合いが取れていると感じるとき、多くの人はそれは「安定つり合い」であると思っているかも知れませんが、実際には「不安定つり合い」であるのを誰かが支えていることもあります。
何かが起こったならば、支えているのにも関わらず責められてしまうのですが、何も起きなければ褒められるどころか、気づかれることもありません。
電車は時間通りに来るのが当然、コンビニに欲しい商品が揃っているのは当然と考えられていますが、当たり前にそうなのではありません。
そこには人知れず誰かの努力があるのです。
評価されることも、褒められることもない、歌われざる英雄は「アンサング・ヒーロー」と呼ばれます。
カミュの短編に「シーシュポスの神話」という寓話があります。
シーシュポスは神の怒りを買い、終わりのない罰を受けます。
山の頂上に重い岩を運び上げるのですが、運び上げたと思ったら、岩はすぐに谷底に転げ落ちてしまいます。
シーシュポスは報われることなく、ただひたすらに岩を運び上げ続けます。
無限地獄です。
ところが、あるとき、「それでよし」と悟ります。
「頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすに充分たりるのだ。いまやシーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。」
贈与はギブ & テイクでもウイン-ウインでもありません。
ただ与えるのみでいいのです。
贈与は贈与の差出人を幸福にするのですから、岩を運び続けるシーシュポスだって幸せを感じることができるのでしょう。
この話を読んだときに、年末にプライムビデオで観た「PERFECT DAYS」を思い出しました。
毎日、決められたルーティンをこなし、質素に生きる主人公、平山とシーシュポスが重なって見えたのです。
平山もまた、アンサング・ヒーローなのです。
組織市民行動とは贈与なのか?
贈り物は、贈る側=差出人になることの方がよろこびが大きいといいます。
それは受け取ってくれる人がいるからです。
贈り物を受け取るということは、受取人が送り手との関係を受け入れるということです。
贈与の受取人はその存在自体が、贈与の差出人に生命力を与えます。
一番わかりやすい例は親子の関係です。
「親は子に与えることで与えられてもいた」のであり、「親は子に生かされている」のです。
仕事をすることにおいても似たような考え方ができます。
労働の対価として賃金をもらう。
商品をお金で買う。
多くのことは等価交換でできている、かのように見えます。
お金をもらうために働く。
生活のために稼ぐ。
しかし、こうした等価交換の論理だけでは「仕事のやりがい」は生まれづらいものですし、ましてや「自分の生まれてきた意味」なんて到底見つけることはできないのです。
職業のことをCallingとも言います。
天から呼ばれている、「天職」のことです。
天職とは「自分にできること」「自分のやりたいこと」であるだけでなく、「自分がやらなければならない、と気づくこと」が必要だといいます。
自分の天職をまっとうしようとするならば、その活動は職務分掌の範囲に留まるようなものではありません。
必要があれば自ら学び、人と会い、組織市民行動、役割外行動といった交換の論理を持たない貢献行動を進んで行います。
それが純粋な好意や善意ではなく、自分をアピールして出世につなげたいというような、計算された取引であるならば、それは贈与ではなくて交換となるでしょう。
そういう人は出世はするのかも知れませんが、結局は人から信頼される人ではありません。
また、逆に好意を受け取る側が、残業代を支払うなど好意をお金に換算してしまうとすれば、贈与の差出人(従業員)のモチベーションを大きく下げることになってしまいます。
彼ら(あるいは自分)にとってはたとえそれが労働であったとしても、組織市民活動や役割外行動とは、それ自体が報酬なのです。
そういうわけで、組織市民活動とはやはり贈与なのではないのかなと思うのです。
そして「贈与にはプレヒストリーが必要」ということから、贈与はすでに受け取っているもののお返しでなくてはなりません。
では、誰から何を受け取ったのでしょうか。
それはきっと、親や、人生の中で関わってきた多くの先生たちから学ばせてもらったたくさんのことを言うのではないでしょうか。
そうしたことすべてに感謝をして、贈与という形で世の中に還元すること、それがCallingでありVisionでありMissionなのだと思います。
なるほど、「世界は贈与でできている」のですね。
最後までおつきあいいただきありがとうございました。
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