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小説「魔法使いのDNA」/#002



慎太郎

 僕の父親はカッコ良くて、面白くて、母と僕と弟を心から愛している。
 
 そして少し魔法を使う。

 そんな僕の父はもうこの世にはいない。18年前、僕が10歳の時に病気で死んでしまった。肺ガンだった。タバコを吸わない人も肺ガンになることはあるのだ。

 だけど、僕の家族は誰も父が死んだなんて思っていない。なぜなら、もうすぐ会えるからだ。もうすぐ会えるのだとしたら死んじゃっているというよりも、ただ遠くで暮らしているような感覚だ。

 父は時々家で魔法を使った。
 それは、枯れかけた植物を一晩で元気にするとか、母が味付けを失敗した料理を一流レストランの味に変えるとか、僕たちが頭の中で考えていることをずばり言い当てるとか、魔法の多くといえば、そんなたわいのないことではあったのだけれど、小学生の僕にとっては充分に魔法だった。

 例えば僕がはじめて自転車に乗れた日のことだ。
 僕が幼稚園の年中児童で、5歳になる前の暖かい初夏の休日のことだった。
 
 僕と父は朝から家の近くの公園へ行った。
 祖母に買ってもらった自転車には補助輪がついていた。
 補助輪がついていれば安定していて倒れたりしないのでもちろん乗ることはできる。自転車は僕の年齢に応じた大きさのものでサドルに座って足が届くように調整されている。だから走り出しさえして、走ることによる安定感を感じられれば補助輪なしで自転車に乗ることはそれほど難しいことではないはず。あとは制御。いつでもどこでも止まれるという安心感が持てれば思いきって力強くペダルを踏み出すことができる。

 僕と父は少し早起きをした。
 「じゃあ、補助輪なしの自転車に乗るのは今日からにしよう。」
 早朝の公園は爽やかで、朝日にあたって草木が生まれたてのようにつやつやとした顔をしていた。犬の散歩をしている人がたくさんいたし、走っている人もたくさんいた。
 
 僕たちは人が少ないスペースを選んで、自転車に乗る練習を始めた。
 僕が自転車にまたがると、サドルのうしろのところを父が持ってくれた。がしっとつかんでくれているので全然ふらふらしない。だから僕は安心してペダルを踏み出せる。
 「もっと強くこいで。」
 「もっとスピード出して。」
 頭のうしろで父の声がする。
 「お父さん、絶対手を離さないでよ。」
 しばらく僕たちは公園の中を行ったり来たりした。
 「いいかい、君はもう自転車に乗れるんだ。なぜならさっきお父さんが魔法をかけたからね。でも魔法は時間がくると解けてしまう。だからその間に本当に乗れるようにしよう。」
 
 父が自転車から手を離す気配がした。でも全然大丈夫だ。なるほど魔法が効いている。公園の端まで来た。
 「よし、そのままハンドルを切ってぐるっと回ろう。」頭のうしろで父の声がしたかと思ったら、父の手がにゅうと伸びて左側のハンドルをつかんだ。自転車が左に曲がる。そしてそのまま半円を描いて向きが変わった。
 「今度は自分の力でまわってごらん。」
 逆側の公園の端まで来たら、僕はさっきの要領を思い出してゆっくりと左にハンドルを切った。でも大きく曲がり過ぎたかも知れない。曲がりきれない。このままじゃ木にぶつかっちゃう。そう思って心が揺れた途端に自転車も揺れた。
 「大丈夫だよ。転んでも痛くない。」
 父の声がする。
 
 僕はバランスを取り戻せずに転んでしまった。でも、父の言う通り転んでも痛くなかった。転んでも痛くないことがわかったらあんまり怖くない。
 「じゃあ、今度はブレーキを教えよう。」
 父は僕の手の上からハンドルをつかんで、ブレーキを握る。
 「こっちが前のタイヤのブレーキ。よく止まるけど、急に強く握っちゃダメだ。勢い余って前のめりに倒れてしまうから。そしてこっちが後ろのタイヤのブレーキ。ブレーキは前と後ろ両方バランス良くかけて、できるだけ急ブレーキにならないように心掛けて止まろう。」
 
 公園を往復しながら、時々ブレーキをかけて止まる練習をした。ブレーキをかけると自転車のスピードが落ちて少しふらふらするけど、今度は転ばなかった。
 
 なんだかんだ、1時間ちょっとの時間で僕は自転車が乗れるようになった。
 「さて、朝ご飯を食べに帰ろう。お母さんが待ってるよ。」
 
 本当は自転車に乗る練習をするのはちょっと心が重かったんだけど、もう今は全然そんなことは思っていない。
 「お父さん、朝ご飯食べたら、もう少し練習していい?」
 
 自転車に乗れるようになるかどうかよりも、気持ちが前向きになるところが父の魔法なんだと思うんだ。 

 父は会社員だったけれど、会社でも魔法を使ったらしい。
 
 毎年5月の連休の頃、父の勤める会社の野球大会がある。父の会社の社員や、取引先や協力会社の人たちが郊外の河川敷のグラウンドに集まってトーナメントで優勝を目指して競い合う。野球大会への参加は強制ではなくて、スケジュールが調整できて参加したい人だけが集まるのだけれど、それでも例年10チームくらいになる。
 
 優勝チームには会社の社長のポケットマネーから出された賞金が少しあるらしい。だけど、みんなが目指すのは優勝チームのチームメンバーに与えられるプロジェクトへの参加権なのだそうだ。父の会社はそこそこに大きな会社で、社員数も多く、部署も多い。プロジェクトは部署を基本につくられていくので、例えばイベントを開催するプロジェクトに人事や経理の社員が参加するということは通常ではあり得ない。ところが、この権利を執行すればそうしたプロジェクトにも堂々と参加できるというわけだ。だから、現状の部署の仕事に満足していない社員などは真剣だ。野球チームには取引先や協力会社の方をご招待している場合がある。協力会社の人も希望とあれば自分の望むプロジェクトに参加できる場合がある。プロジェクトに参加できれば自社の売上につながる機会をつくれるわけだから、父の会社の社員よりもゲームに執着する人がいたりする。
 
 野球大会はずっと前から実施しているらしいが、プロジェクト参加権を優勝チームへの賞品として提案したのは父で、それも父特有の魔法だ、と父の会社の社員の誰かが言っていた。
 
 この野球大会は休日に開催されているので、家族ぐるみで楽しんでいる。応援には社員の奥さんやら子どもやらが大勢やってきて賑やかで楽しい。
 
 僕は小学2年生から応援に行くようになった。まあ、父が病気になってしまったので、結局はたったの2回しか見に行けなかったのではあるが。
 
 これはその2回目の、僕が小学3年生の時の野球大会でのできごとだ。
 父は野球が特に好きではなかったので、家のテレビにプロ野球が映っていることがまったくなかった。父が見ないので僕も野球には興味を持たなかった。だから、当時の僕は野球のルールをほとんど知らなかった。さすがに今は凡そのルール程度なら知っている。
 
 僕の父のチームが先攻だった。相手のチームはピッチャーとキャッチャーがずば抜けてうまかった。知り合いの協力会社の社員で、某大学で学生時代にピッチャーをやっていた人間をスカウトしてきたそうだ。キャッチャーも同じく協力会社からの助っ人。その会社が参加する団体の野球大会にもバッテリーで参加しているらしいから息もぴったりだ。
 
 球速はもちろんあるのだけれど、素人相手にそれほど真剣に投げているわけではないので驚く程ではない。しかし父のチームがまったく相手にならないのは、コントロールが素晴らしく良いことと、試合慣れしている試合運びのせいだろう。ピッチャー、キャッチャー以外ならたいしたチームではない。完全に打ち取られたはずのサードゴロが一塁への暴投によってセーフになったり、たまにポカンと出会い頭にバットに当たって、たまたま外野まで飛んだフライがヒットになったりすることがあったけれど、結局次のバッターが三振で打ち取られてしまうので点数にはつながらなかった。
 
 草野球なので試合は5回の裏表の攻防で争われるルール。父のチームは素人が多いものの、少年野球や、中には高校野球の経験者が居たりして、実はそれほどヘタクソなわけではない。でも、相手チームのピッチャーとキャッチャーにちょっと打たれて、4回の裏を終了した時点で4−0という状況。いよいよ最終回の攻撃だ。ここで4点取れなければ試合終了となり、1回戦敗退だ。
 
 5回の表、父のチームの攻撃、打順良く1番からだ。バッターボックスに向かう1番バッターを呼び止めて父が何やら耳打ちすると、その、色の浅黒い少し背の低い男性がにやりとした。
 カキン!
 見送りで1ストライクを取られてからの2球目、不器用に上から振り下ろされた感じのバットに、偶然ボールが当たって、サードとショートの間を転がってレフトに抜けた。
 ずっと冷静で余裕のあったピッチャーがめずらしく舌打ちをした。
 
 2番バッターは少しメタボな眼鏡の男性。バッターボックスに向かうメタボの肩を父が軽く2回叩いた。メタボは振り向いて、そしてやはり不敵に笑った。
 メタボは帽子をとってかるくお辞儀をして挨拶をするとバッターボックスに入り、バットを高々と持ち上げて大きく構えた。ピッチャーは一塁ランナーには気を取られていない。あと、3人打ち取れば試合は終了である。4回が終了してここまでの奪三振の数は9。12のアウトのうち、4分の3にあたる9つのアウトを三振で取っている。セットポジションからちょっと力の入ったボールを放る。その瞬間、メタボがバットをすっと降ろしてバントの構えを取った、と同時に1塁ランナーが2塁へ走り出す。ピッチャーは嘗(な)めきっていただけに少し慌てたのかも知れない。ボールが指先にちょっと引っかかりバッターのインコースにボールが向かう。メタボはバントの構えから身体を起こし、突き出たお腹を引っ込めようとするがわずかに間にあわずにボールはその肉クッションに吸い込まれてホームベースの横にボトンと落ちた。
 デッドボール。これでノーアウト1、2塁。父がバッターに何を言っているのかはわからないが、僕は魔法の呪文を唱えているのだと思った。
 
 3番バッターはセカンドゴロに打ち取られたが、アレルギー鼻炎の二塁手がボールキャッチの瞬間にクシャミをしてボールを見失っている間にバッターが1塁を駆け抜けてまさかの満塁。冷静だったピッチャーの頭から湯気が上がりだしたのが小3の子どもの僕でもわかった。
 
 そしてこの一番の大舞台に4番バッターで登場したのが僕の父だった。
 父は大きく深呼吸すると挨拶をしてバッターボックスに入って足場を確認した。そして一度目を瞑り、何やらぶつぶつ言ったかと思うと、ゆっくり目を開けてピッチャーをちらっと見て、そしてゆっくりとバットを構えた。
 
 僕はイチローみたいだ、と思った。
 僕は野球に興味がなかったのでイチローがどんな構えをするのかなんてまったく知らなかった。僕のイメージの中でのイチローの姿と重なったわけだ。野球の上手な人=イチローという公式だったのかも知れない。
 
 セットポジションから素早いタイミングでピッチャーがボールを投げる。意表をつかれて父は慌ててバットを振ったけれど、大きく空振り。肩をすくめて苦笑いだ。
 
 父が構え直す。身体の真ん中に力が入って、キュッて体全体が締まった気がした。
 
 ピッチャーは3塁ランナーをちょっと牽制して、そして2球目を放った。ボールが手から離れた瞬間、ピッチャーは一瞬「しまった!」って顔をした。父はその表情に気がついてちょっとニコってした。ボールは少し高めでホームベースの真ん中に入ってきた。
 カッキーン!
 ボールはピッチャーの頭上を高く越え、センターの頭をも越えて、金網のフェンスを越えてその先にあるテニスコートへ落ちた。
 
 シナリオでもあったかのようなまさかの同点満塁ホームラン。
 父がゆっくりベースを一周して帰ってきて、チームのみんなが笑顔でそれを迎えた。やいのやいの大騒ぎだ。僕も嬉しかった。
 
 ホームベースの辺りで土埃がまって、そのせいで父は少し咳き込んだ。父はベンチに戻るとスポーツドリンクをごくごくと飲んで一息ついたけど、なかなか咳はおさまらなかった。今、思えば、それは土埃のせいだけじゃなかったんだ。
 
 相手チームはピッチャーとキャッチャーがポジションを交代した。
 折角流れが来ていた感じだったけど、残念ながら相手チームもペースを取り戻してしまった。父は咳はおさまったものの胸を押さえてなんだかあまり調子が良さそうではなかった。結局、そのあと3人連続で三振してスリーアウト、5回の裏の相手の攻撃を迎えた。5回の裏は連続でヒットを打たれてあっけなくサヨナラ負けとなってしまった。
 
 帰りの車の中で、父はまだ少し調子が悪そうだった。
 「大丈夫?」と僕が聞いたら、
 父は、「実力じゃなくて魔法でホームランを打っちゃったから、身体への負担が大きかったな、やっぱりズルしちゃダメだな」と言って笑ったんだ。 


#002を最後までお読みいただきありがとうございます。
#003は1/30(月)に配信します。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。


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