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神はどこに


学生時代は六年間ミッションスクールに通い、週に一度聖書の勉強していた

毎朝礼拝をして、聖歌を歌っていた
懐かしいけれど

これは義務、授業の一貫

朝から聖歌を唄うのは嫌いではなかったが…


聖書の授業中に
「神はどこにいますか」
と質問され、回答を紙に書いて
提出したことがある

わたしは漠然と
「神は自分の中にいると思う」と書いて用紙を出した

返ってきた回答用紙には
「その通りだと思います」 
と先生のコメントが書かれていた

なんとなく自分の思ったことを書いただけ
でもそれが聖書を教える司祭の考えと同じことに驚いた

それからは自分の中に神を探した

いるのだろうか
いないのだろうか

こころの中からの返事は来ない

肉体ではない
こころが人間の中心だと
感じてはいたが
感じるだけで
見えない

見えない世界をつなぐ人たちに出会えるものの
どこかで信じ切れないままだった
胡散臭さを感じていた

金品を要求されるのは違う
それだけは分かっていた

わたしは病を抱え
本当は大した病ではないと
いつか治ると信じてきた

母も病が治るならと何でもすると
あちこちをかけずり回ってくれた
でも病はひどくなるばかり
病院の治療で死にかかり
投げやりになる
何をしても治らない

生きていても仕方ない
母もいつしかあの世に還ることばかりを考えていた
娘と一緒に寄り添って
ずっと生きてくれていた

母は神も仏もあるものか
こんなに必死にもがいて
生き続ける
救われない人生なんて
生きてる意味はない

多分そんな風に思っていたのだろう

ところがある時
母は本を見つけた
芹沢光治良氏「神の計画(はからい)」に巡り合った

その本を読んでみると
わたしには世の中がひっくり返るような出来事が記されていた

あの世こと、この世のこと
こころのこと、生き方のこと
詳しく書いてある

フィクションなのか、ノンフィクションなのか

天理教嫌いといわれる芹沢氏が天理教の教祖の魂が降りる青年との会話を書いている

読者はこのことが本当ならば、この青年の住んでいる場所を教えてくれと出版社や芹沢氏の自宅に連絡をしてくる

教祖の降りた時の青年に芹沢氏が聞くと
「いいで~」と言われ
芹沢氏も出版社も遠慮なく教えていた

わたしも母も出版社に連絡する勇気もなく時は過ぎる
わたしたちには遠い存在と決めつけていた

ところがそれから2年後に
唐突に芹沢氏の本を介して
わたしは教祖の降りる青年のところへ導かれる
いやいやひっぱられる

ウソでしょう…
本物の神に巡り合えた 
 
あぁ恐ろしや
わたしは全てをお見通しの神の前に出られるような人間ではないと感じていた
何でも見抜かれる神 
何を言われるのか
こころは震えた

でも進むしかない
逃げるわけにはいかない

こころを見抜かれる神は言われた
いつも見ているは見守っていること
やさしい言葉をもらって帰る

母はわたしの持ち帰った神の言葉のテープを聞いて、聞いて、聞きまくる
こんないい世界があるのかと
どんどん突き進んで行く
そして母も変わった
母もこころの中に神を見つけた

神はどこにいる
自分のこころの中にいる
いつもこころを見ている神

そこからが修行
細く長くの修行の道の始まりだった

こころの中をお見通しの神は
やはりわたしの中にいる

最近は肉体のない母も
わたしのこころの中をのぞいている
一緒にいる
そんな風に思えるようになってきた

死はすぐ先の道の角を曲がっただけ
そこに母は存在すると言われている

ずっとずっと前から教えられている
神は変わらない
変わったのはわたしの方  

見えない神を探したら
すぐそばにいた

神はどこにいる

わたしの中にいる 

メーテルリンクの青い鳥が浮かびくる




#創作大賞2023

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ノリかな
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