A glass of water
第一話
「魂……、というものがあるとして、それは、最小単位のものなのでしょうか」その男、ユージーンと呼ばれている恰幅のいい男は穏やかな口調で語りかけて来た。
「それはどういう意味でしょう?」オレはユージーンの言葉の真意を計りかねて聞き直す。
「洋の東西を問わず、宗教というのは人間には魂が宿っていると考えます。いえ、そういった概念を教義に取り込んでいる宗教が多い」
「ええ、そうですね。そう思います」
「そして、その魂というのは、肉体を離れた後は、死後の世界に向かうとも考えがちです」
「ええ。死んだら、地獄や極楽、天国という世界へ行くという考え方は一般的ですね」
オレは目の前に座っているユージーンという男を観察しながら、一問一答の問答を繰り返す。ユージーンというこの男はゆったりとした白い装束に身を包み、とてもリラックスした姿勢で目の前に座っている。三十代後半といったところだろうか。”美丈夫”という言葉が頭に浮かぶ。整った顔立ちだ。
「人は、自分という個である事を非常に大切に思ってしまう生き物です。そして、死という逃れられない恐怖は、死してなお残る自身の個があるべきだという方向で宗教を形作った」
「なるほど。そうかも知れません。死んでしまったその先にあるのが、無であるというのは耐えがたい恐怖だと思います」
「えぇ。そうです。それが故に、魂という概念を作り、死してなお、自身の個がどこかに存在し続けるべきだとした。それを癒しとし、社会秩序に一役買うシステムとして宗教というのは広く伝播し、場合によっては力をもつ組織として成り立ちました」
「そうかも知れませんね」
恐らくは宗教学なんていう、文学部なんかの初等講義の序論でも、ユージーンの言う事は聞けるだろう。オレは、少し冷めた気持ちを隠す事もなくユージーンの説明に素っ気ない相槌を打つ。
「しかし、果たして、魂というのは揺るぎない個であり続けるものなのでしょうか」
「例えば、このコップに入った水」ユージーンはそう言って、傍らに置いてあったグラスを手にとり、続けて言う。「この水を、湯を張った風呂に一度注ぎ入れ、そして、そこから同量の湯をこのコップに再び入れたなら、このコップの中の水分子は、今とまったく同じ水分子が入ったものでしょうか」
ユージーンの問いかけに答えるべき理屈を頭の中でこねようとオレは試みる。
「水分子に違いがあるとも思いません。同じという事になるんじゃないでしょうか」
「ふむ……。それでは、人糞を堆肥として育てた野菜は、人糞を養分として大きくなり、美味しい野菜となる訳ですが、あなたがその野菜を食べる時、人糞を食べていると思う事はありますか?」
「まさか。そんな事はまず考えませんよ」
「そう。この世界にあるものは全て、分解と再構築という循環の中にあります。全ての物質は、分解と再構築の過程でしかありません。人糞だったものも分解と再構築の果てに野菜の一部となり、また、人の体を通り過ぎる」
「ええ。そうですね。そういうものだと思います」
だから、何を言っているんだ、このユージーンという男は。
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元は大学の文芸サークルだったというこの団体――紙と粒――が、今や政財界に大きな力を持つ様になった新興の宗教だとの噂を聞きつけ、オレはルポルタージュ作成の為に赴いた。マスコミ志望の大学三年生男子の行動としては悪くないハズだ。
しかし、拍子抜けだ。【紙と粒】の総本山だというこの建物は、うらびれた温泉地の廃業した旅館をそのまま買い取ったものらしいが、金をかけている様子もない。政財界にさえ力を持つような団体の所有物には見えない。ただ、この施設内で見かける信者たちは皆、生き生きとしていて肌艶もよく、穏やかな笑みを常に湛えている。老いも若きも、男も女も、皆同様にだ。
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「この世の物質は、全て、分解と再構築のその過程にあるものです。さて、私たちは未だ、科学の目で魂を目視し、そして、それを研究した事はありません。魂はこの世の物質ではないという事も言えるのでしょうけど、果たして、魂が分解と再構築の過程のものではないと、どうして言い切れるのでしょう?」
「えっと……」オレは絶句してしまう。
「先ほどの、コップと風呂の水の話に戻りましょう。さっき、コップと風呂に入っていたのは水と湯でしたが、今度は一粒一粒色の違う砂が、コップと風呂に入っているという事にしましょう。そして、さっきと同じことをします。さて、コップの砂は風呂の中から再度入れ直した時、その前の状態とまったく同じでしょうか?」
「……いいえ、まったく同じ砂が入っているとは考えにくいです……」
「そうですね。まったく同じ砂をコップに入れ直す事は、おそらく不可能です」
「ええ」
「そして、このコップとは私たちの肉体。コップの中の砂とは魂、そう考える事に不合理はないと、私たちは考えています」
「つまり……」オレはおずおずと思い付きを口にする。「魂とは、死んだ後には他の魂と交じり合い、その先に、別の魂として、生を受ける……と」
「そうです。そういうものです」
施設内で見かけたどの信者よりも穏やかで艶やかな笑みを湛えながら、ユージーンはそう言った。
第二話
どうしてこうなった……。オレは何度も反芻する。……どうしてこうなった。
オレの目の前には裸のユージーンが、いや、オレの眼前十数センチの距離に、ユージーンの男性器がある。
オレもやはり裸で、仰向きに寝そべり、ユージーンが座っている側に上体を捻る形で向けている。背、そして、捻った上体の下になっている半身を受け止めているビーズクッションが柔らかい。オレはユージーンの顔を見上げ、ユージーンの男性器に目をやり、また、ユージーンの顔を見上げる。優しい笑みのユージーンの顔、見た事のない、至近距離の、他人の、こうなっている、男性器。
そんな中、つま先に何かが触れる感触があった。自身の下半身の方へ目をやると、裸の女が四つん這いでいた。さっきまでユージーンの傍らに座っていた白装束の女だ。
重力のままに、オレの左足に乳房を触れさせながら、ゆっくりゆっくりと近づいてくる。はにかんだ様な笑みを浮かべたその顔は美しく、高揚を湛えている。その顔の向こうには彼女の膝で支えられ、天井に突き上げるように張った尻がある。重量を持った絹のような肌触りが滑らかに脛から膝、膝から腿へ移って行き、彼女はオレのへその下辺りに音を立ててキスをした。
――この世に生きている以上、個である自分というものから我々は抜け出せません。また、この世に生きている以上、個である自分を大切にする事は重要な事です――
オレは、ユージーンが言っていた言葉を思い出す。
――ですが、個である自分に囚われてしまうと、目先の小さな損得に振り回されたり、大局を見失ったり、個を大切にしすぎている者同士で諍いを繰り返す事になります――
ユージーンはこうも言っていた。
――個である自分を解放する事で、得られる境地があります。ですが、そこには、言葉や論理だけでは到達しにくい――
ゆっくりと、しかし、ハッキリとした心地よい声とリズムでユージーンから語られるそれはとても魅力的だった。
――我々は交じり合い、そして、別れ行き、また再び交じり合う……、そういったものなのです。交じり合った中から飛び出した孤独な魂同士がいがみ合い、傷つけあうのは酷く哀しく、酷く虚しい――
裸のユージーンと裸のオレと裸の美しい女。この三人がゼロ距離で触れ合っている現実感のない状況の中、オレはユージーンの言葉を思い出している。
オレの広げた足の間にちょこんと収まった女がオレの陰嚢に唇で触れる。それに倣い、オレはユージーンの陰嚢にキスをする。続いて、オレの性器に、触れるか触れないかのギリギリの感触がある……、おそらく舌先でオレの陰茎を舐め上げているのだ。その感触をそのままに再現しようとオレはユージーンの陰茎に舌を這わす。
咥えられる。咥える。舐めまわされる。舐めまわす。唇を窄ませている。唇を窄ませる。咥えたままに首を上下に動かされる。咥えたままに首を上下に動かす。指でまさぐられる。指でまさぐる。頬ずりをされる。頬ずりをする。指で挟んでこすられる。指で挟んでこする。
いつしか、オレと女の動きはシンクロしていた。視覚以外の五感への刺激をオレは女から得、それをオレの動きでユージーンにフィードバックしていたハズが、女の行動がオレに先んじているなんて事はなくなっていた。
オレの上半身の行動と感覚は女のそれと同期して、オレの下半身に与えられる刺激と愉悦はユージーンのそれと同期している。頭の中が忙しい。しかし、背徳感が薄れていくのと同時に、何もかもが解けて溶けていくような感覚が気持ちいい……。
においと熱の放出が二つ同時に起こる。オレの口腔内と女の口腔内。ユージーンの性器とオレの性器。二つの接合部は同時にゆっくりと離れた。オレはユージーンの顔を見上げ、次に女の方に顔を向ける。オレと女は目を合わせ、同時にゴクンと飲み込んだ。そして、女は「ふふっ」と笑い、オレも同時に笑った。オレは、生きてきてこれ以上の笑い声はないというくらいに、笑うこと自体が可笑しくて仕方がないといった調子で、大声で笑った。
「前世の記憶を持った人がいるという話があります。また、死してなおこの世を彷徨う幽霊がいるという人もいます。これらは、魂が揺るぎない個である証左ではないかという人がいます。我々の考えは誤っている、と」
ユージーンは語りだす。オレ達は三人、裸のままで寝そべっている。快適に保たれた室温の中、汗を滲ませたオレ達は互いに肩や手で触れあったまま横になっている。
「肉体がコップ、中の砂が魂……。心に傷が付くという事が、コップの中の砂に水を含ませるようなものだとしたら、彼らの論拠も我々の考えの中に入れる事が可能です。水で固まった砂は、他の乾いた砂とは混じり難く、コップという肉体を失っても、コップのカタチを保ち続けるかの如く」
ユージーンの落ち着いた声の話と話の間の沈黙には、オレと女の息づかいが部屋をさざめかせる。息づかいも同期したままのようだ。
「傷を負った魂は濡れた砂のように、来世でも今のままの個であろうとする。激しく傷を負った魂はコップという肉体を失っても、コップのカタチのままで幽霊となる……、なんてこじつけはいくらだって出来るんです。そう、それはこじつけです。そして、私たちの考えが正しいだなんて誰かに押し付けようとは思っていないんです」
ユージーンの言葉に少しだけ熱がこもる。オレと女はただ息を整えながら、ユージーンの言葉に耳を傾ける。
「魂の有り様がどうであれ、来世があろうが前世があろうが、我々には一回きりの愛おしい自身のこの人生がただあるだけなんです。それを、つまらないこだわりに囚われて、囚われたままに人生を浪費するのはもったいない。つまらないこだわりに捉われずに、めいっぱいの大きな愛と共に生きようよ、というのが我々の大義です。……大義なんて大それたものじゃ、ありませんけどね。コップの中の水や砂のごときが魂である、なんてことは、別にどうでもいい事なんです。」
「ぶっちゃけ過ぎじゃないですか?」言い終えた感のあるユージーンに対してオレは率直な感想を言った。
「ハハハ、そうですね。でもね、つまらないこだわり……、常識だとか、社会規範だとか、『こうあらねばならない』みたいな強迫観念みたいなものが、今のあなたの中ではとても小さなものになっていませんか?」
「ええ。昨日のオレが今のオレを見たなら、絶望したかも知れません。でも、今のオレは昨日のオレをちっぽけなものに思えてます」
「こういうのって、言葉や論理でどうにかなるものじゃないんですよね」
「えぇ。分かります」
「さて、次は……。そうそう。ご紹介がまだでしたね。彼女はチエ。私たちの大切な仲間です。次はチエにしっかりと満足してもらおうと思うのですが……」
「もちろんです」オレは爽やかに応える。
昨日までのオレのままだったなら、ユージーンへの返答に野卑な空気が滲んでいたかも知れない。しかし、今のオレには湿った感情がまるでない。愛をもって楽しむ事に後ろ暗い感情など要るハズがないではないか。
微かに、僅かに、アタマの隅に、『妙な沼に足を踏み入れたような感じだ』という感想が生まれたような気がしたが、それはすぐに掻き消えた。
第三話
「実は、この”ユージーン”って、オマエをイメージして書いたんだよ」無表情で、淡々と斎藤はそう言った。
成績も、体格も、自由に出来る金の額も、女に不自由した事のないこの境遇も、何一つとして負けてなどいない、いや、圧倒的にオレの方が勝っているこの斎藤に、オレは激しく嫉妬していた。同じ文芸サークル”紙と粒”で活動している斎藤の書いた一編の短編小説に、オレは脳天を揺すぶられ、肌が粟立ち、言いようのない焦燥感を覚えさせられたのだ。そんな嫉妬心をおくびにも出さずにいたオレに、斎藤はそう言った。ユージーンのモデルはオレなのだ、と。
オレは中学の頃からずっと、そして今も、女に困った事など無い。「ヤリてぇな」とうるさい同級の童貞どもと話を合わせるのが面倒だった。セックスも、相手の反応を見るのは楽しいが、オレにとっては野性的な衝動を満たす為のものではないから面倒に思える。それでも、女は抱かれる大義名分をなんとか拵えてはオレに近づいて来た。そんなオレが、この短編小説の、モデル?どういうことだ。
「他人が羨むような人生を歩んでいるくせに、自分自身は全く満たされない……、常に渇きに喘いでいるヤツが、この世の真理を知った、と勘違いしたらどんな感じになるかな、って想像していくうちに、こんな話が出来た」斎藤はやっぱり無表情でそう言った。
あの後、オレはどうしたんだっけ。斎藤は他にどんな事を言っていたんだっけ。
あぁ、あれはもう、十五年も前のことか。オレはまどろみの中で、見ていた夢、過去にあった事実を思い出そうとする。
実際にユージーンと呼ばれるようになって、教祖まがいの立ち居振る舞いにも慣れて、何年が経っただろう。
斎藤の短編小説のネタをそのままに拝借し、もっともらしく語っていたら、不安や疲労に塗れた人間が集まって来た。そして、いよいよ、斎藤の小説そのままに、フリーセックスに興じていたら、地位や財産や美貌をもった老若男女が擦り寄って来た。バカな奴らだ。その内に、オレに心酔したアイツらは、自分の持っているモノをオレに差し出し始めた。若さと美貌を持っている者はその肉体を、地位を持っている者は貴重な情報を、財産を持っている者は金を。アイツらは魂を解放して、ナニカになりたいらしい。そして、ナニカになれた様な気になって、満足している。
バカな奴らだ。
でも、オレはアイツらの事が羨ましい。
アイツらはオレの言葉のままに、なんらかの解放は得ているようだ。
満たされ、満ち満ちているアイツらの表情をオレの技能の中に取り込む事は造作もなかったが、オレが満たされる事はない。
オレは、オレだけは、オレのほら話に心酔して信じ切ってしまう事が無理なのだから。
魂など知った事か。
オレを心酔させてくれる教祖よ、オレと出会ってくれ。
しかし、人を心酔させるテクニックを、オレはもう、飽きる程知っている。
誰かに心酔する幸せが、オレには遠すぎる。
ー終ー
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