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10年後の食卓に、何を並べたいのか

この前、久しぶりに「将来の夢」を文字にする機会があった。
30歳を過ぎ、子供の頃になりたいと思っていた職業に就く夢は達成されていて、好きな人と結婚もできた。今の私には、将来の夢がなかった。だから、書けと言われたときには困った。

何だろうなあ、そんなつまんない大人になってしまったのか。
帰宅する電車の中、久しぶりにある人のブログを読んだ。

その人は、芸能人とまではいかないけれど、メディアにも露出していて、フリーランスで活躍されている同世代の女性。もう10年前から時々読んでは、自分らしい生き方を追い求め、ポジティブに、美しく、毎日を楽しみながら生きているその様子に憧れていた。

いや、正確には、「私だって●●できるし、彼女よりここが上だ」なんて、少しでも自分が優れている点を探しては、物陰から羨望の眼差しを注いでいた。「憧れている」なんて素直に認められるようになったのはここ最近のことだ。

彼女は、たぶん24〜5歳の頃に実家で料理を始めた。最初の頃の記録は拙いものだった。私は、当時付き合っていた彼氏の家に通い妻をしていたので、レシピを見ながらも一通りの料理はしていた。「私のほうが料理できるわ」と上から目線をビシバシ注ぎながら彼女のはじまりの記録を読んでいた。

それから10年弱が経った今。
彼女のブログには、緑いっぱいのベランダでフルーツと何種類もの野菜を使ったサラダと、こんがり焼けたトーストと、目玉焼き、大きめのマグカップにたっぷり注がれたカフェオレ。が、ふたりぶん。

朝6時に起きて朝の時間を楽しみながら準備をしているらしい。いわゆる「この人の1日は私より5時間くらい多いんじゃないか?」と思うようなインスタ映えメニューではなく、手の届きそうなレベル感で洗練されている。

かくいう私は、食べたり、食べなかったり。
今朝は、ふるさと納税で手に入れたはちみつとキウイをスーパーで98円だったヨーグルトに混ぜ、昨日買った高級生食パンを気がすむまでかじっていた。夫の分なんて用意していない。彼は今朝もたぶん、プロテイン1杯飲んで家を飛び出したのだろう。

何だろう、この差は。同じ10年弱を過ごしてきたはずなのに。
私にだって、成城石井で買った280円のヨーグルトにイチジクとナッツとミントを飾る平日の朝があったはずなのに。あの頃の彼女は私より料理ができなかったはずなのに。焦燥感と憧れが止まらない。

最近よく、「今の自分はこれまでの選択の結果だ」という言葉に心がざわつく。私は決して、手を抜きながらこの10年弱を生きてきたわけではない。でも、胸を張れるほどに上と前に突き進んできたかと言ったらそうではない。

件の彼女はフリーランスで、比較的時間の融通がききやすい。きっと旦那さんも比較的早く帰ってきて、一緒に早めに眠りにつけるのかもしれない。毎日オーガニックなフルーツを食べられるだけの収入もあるのだろう。
それは、彼女の選択の結果だ。ポジティブな言葉の裏側にはきっとたくさんの葛藤と苦しみがあって、それでも自分の行き方を貫いた結果の今がある。そして彼女はこれからも同じようにもがきながら、ほど良い素敵さを振りまいてくるはずだ。

もうすぐ最寄駅に着く電車の中、胸の奥がじわっと熱くなった。
恥ずかしさと、うらやましさと、若干の「なにくそ」という気持ち。

駅を出ると、月が近くて、大きくて、赤みがかって見えた。時折出会える、妖しくて、何かを予感させるようなこの月が好きだ。
私は、将来の夢をひとつ見つけた。
「毎日違う朝ごはんをゆっくり楽しめるような、ゆとりある暮らしをすること」。
そのためには、料理の腕もそうだし、生活スタイル、美意識、時間の使い方、収入の得方まで整えていかないといけないだろう。これからの毎日のたくさんの選択の結果が、明日の朝の食卓につながっていく。

まずは、気持ちを変えるところから。
駅からの帰り道、私は久しぶりに、すべての信号を青信号でゆっくりと帰った。誰に見られているわけでもないが、心の中が少し透明になった気がする。


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