海外でサバイバル語学術:道端での喧嘩から博士まで
私はインドに住んで12年になる。英語はそこそこ得意だったが、最初に住み始めたコルカタの地元の言語であるベンガル語も、北インドでよく話されるヒンディー語も全く知らなかった。日本で生まれ育ちながら英語が得意になったきっかけはやはり音楽で、ヒップホップの歌詞の意味を辞書で一つ一つ調べて何度も聴いたり、バックパッカー旅行や映画を英語字幕で見て勉強したおかげで、会話はかなりできるようになった。
しかし、初めての海外での一人暮らし、周りの人たちと同じ言葉を話せないのは、思った以上に不安で、孤独を感じるものだった。
7年が過ぎ、コルカタの大学院で古典音楽の修士・博士課程を終了する頃には、英語で200ページの博士論文を書くまでになった。会話をするのと、文章を書くのは全く別のスキルで、特に専門用語を交えながら自分の意見を母語以外で論理的にまとめるのは、本当に大変だった。
授業をベンガル語で行う先生もいたため、そちらも必要に迫られて覚えざるを得なかった。言うまでもなく、専攻する音楽とともに、二つの言語も必死に勉強した。
現在ではインド人の夫とは英語をメインに会話し、ベンガル語はコルカタを離れて忘れつつあるが、日常会話で不自由しないほどのレベル。
その語学の学習方法の肝は、喧嘩だった。
というと極端だが、 日々遭遇する状況ごとに、語学力がないために伝えられなくて悔しかったことをその都度書き出し、英語とベンガル語に翻訳して次に訪れる同じような機会に備えて、自分のセリフとして何度も口に出して練習したのだ。
私が住み始めた頃のインドでのローカルライフは毎日がサバイバル。
今のようにアプリで食材や野菜までデリバリーしてくれるようなサービスはなかったし、Uberもない。また国費留学生という立場なので、駐在員の方々のように家政婦や買い物に行ってくれる人、運転手などはいない。当時のコルカタはスーパーマーケットもほとんどなく、買い物は商品に値段の表示が全くない、近所の八百屋や雑貨店。米1キロ、卵1個買うのだって、まず値段を聞くのだ。 外国人と見て吹っかけてきたら、「さっき私の前に同じものを買った現地の人には、いくらだって言ってたよね?」くらいのことは言いたい。
また、当時のコルカタのようなインドの田舎では、一日中外出していれば1日5回は、たとえキャンパス内でも「中国人!」と囃し立てられた。いつものように歩いている道でそばを通り過ぎるトラックの荷台から、はたまた混雑した大通りの向こう側からわざわざ、「チン、チュン、チョン」と大声で叫ばれたこともある。こちらはただ日常を過ごし、道を歩き、乗り物に乗ったり友達と一緒にいるだけにも関わらず、突然向けられる悪意。ショックと驚きで言葉が出なくなることは多々あった。
こんな時、一言でもさっとベンガル語で言い返してやりたい、とか、もっと難しい立場に置かれた時や意見を求められた時、英語の長文を駆使して理路整然と話したいという思いが込み上げた。
これらは極端な例ではあるが、語学力向上の原動力はいつも、相手に「自分の気持ちを伝えたい」という思い。「伝えたいのに伝えられない」歯痒さは、二つの言語を本気で学び、マスターする中で大きなモチベーションになった。
経験を重ねる中で多くのことを学び、自分の語彙力や表現力も鍛えられた。振り返ってみると、こちらの伝える力が足りなかったために生まれた誤解や、伝えきれなかったこともある。それもまた、成長につながる一つの学びだったと思う。