見出し画像

自己紹介~人生振り返り~


色彩や形状にこだわる幼少期(~5歳)

山中温泉:菊の湯と山中座

1977年9月16日生まれ。石川県加賀市(当時は江沼郡)にある山中温泉の小さな病院で誕生しました。フジテレビ系列で放送された連続ドラマ『はるちゃん』の舞台が山中温泉だったので、聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません。生まれて間もない時期に肺炎になって高熱を出したらしく、いまだに健診時には「過去にひどい肺炎にかかったことはありますか?」と確認されることがあります。

3歳になる年に妹が生まれて、わたしは"お姉ちゃん"になりました。親に構ってもらえない時間をさびしいと感じた記憶はあまりなく、ひとりでお留守番できるしっかりもののお姉ちゃんでいることが当たり前になっていました。
クッキーやおせんべいなどをポロポロとこぼさないように、ゴミ箱を抱えてお菓子を食べていたそうです。「保育士やってる親友に本気で叱られたわ」と母親が何度も話すお決まりのエピソード。

色鉛筆大好き

保育園の年長さんになるまでの何年間かは自宅で過ごしていました。同い年の友達はおらず、大人に囲まれていたので、自ずとひとりで遊ぶことが多く、このころは色鉛筆と図鑑と絵本がおともだち。お絵描きが好きなわけでも、植物や昆虫が好きなわけでも、空想の世界に浸るのが好きなわけでもありません。

例えば、色鉛筆の遊び方:
1.まずは箱に書いてあるとおりに色鉛筆をきれいに並べてみる
 ― ルールに従うのは大事と思っている
2.自分がいいと思う順番に並べ替えてみる
 ― 色のつながり、色の名前の序列、物理的な長さ順など試すのが楽しい
3.身の回りにあるものが何色-なにいろ-であるかを言いたいがために、ひたすら色の名前を覚える
 ― 12色→36色→64色と増えるほどやる気出てくる

グラデーション大事

大人になった今でも、お洗濯ものを干すときなどに、謎に色のグラデーションを気にするのです。黒から濃紺、その隣に青、のように。靴下と下着と混在していたり、TシャツとTシャツの間にタオルがあったり、そういうのはとても気になります。乾けばいいじゃない?なんて言葉は耳に入りません。

毒キノコ:ベニテングタケ

図鑑の目次が好きでした。○○のなかま、みたいな感じでまとまっていて。本編のほうをひらくと、忠実に描かれたイラストの下に名称と説明が書いてある。モノクロの写真やカラフルではない詳細解説ページはほとんど開きませんでした。毒キノコや食虫植物のページが好きでした。

植物図鑑を持って外に出て、見つけた雑草をひたすら図鑑で探すのです。記憶と勘でページをめくって「きっとこれだ、ムラサキサキゴケだ」と照合して遊ぶという。このころ、自分のことを雑草博士だと思っていました。大人たちが、「ピーピー豆だ」といえば「これは、カラスノエンドウっていうんやよ」、「猫じゃらし」といえば「違うよ、エノコログサ!」という調子です。もう少し大きくなったころに祖母と山菜取りに行き、慣れてくるとわらびしか目に入らなくなったこと、眠る時に目をつむってもわらびの光景が見えてなかなか眠れなかったことを日記に書いたように思います。

カラフルですな

昆虫図鑑も嫌いじゃなかったのですが、色鮮やかなカミキリムシとカメムシが気持ち悪く、蝶も顔みたいな模様があって怖いし、蛾のモフモフした触覚は不気味、という感じであまり開かなくなりました。

『からすのパンやさん』のお気に入りページ
大人になってから手に取った『思いつき大百科辞典』

絵本については『からすのパンやさん』の見開きで色んな形のパンがたくさん載っているページが大のお気に入りで。暗いトーンの色しか出てこない『しろいうさぎとくろいうさぎ』はあまり好きではなく、自分の本棚とは別の場所に片付けていました。大人になってから購入した『思いつき大百科辞典』は、やっぱりこういうの好きなんだな...を実感します。

体験から学ぶ年長・小学校低学年(6歳~8歳)

年長さんになって、弟が生まれました。わたしは"ふたりのお姉ちゃん"です。保育園に通い始めたので同い年の友達ができました。玄関で靴を脱ぐとき、鞄を片付けるとき、連絡手帳を先生に渡すとき、常に目に入るシールは"さつまいも"でした。わたしはサツマイモ...。お友達は、リンゴとかイチゴとかバナナとか、くだものシールなのに、わたしはサツマイモ。どうしておいもさんなのかな?と思いながらも誰にも聞けずに黙っていました。

すこし経つと、背の高い男の子が新しいお友達としてやってきました。彼は4月生まれで、足が速くて、絵が上手で、ちょっと変わった話し方をします。鞄を片付けるロッカーが4月からお誕生日順に並んでいたので、彼が加わることで1つずつ横にずれたのを覚えています。ゆりぐみで一番強かった"Hくん"が、おゆうぎしつにあったブロックを彼に投げてケンカになり、この日からゆりぐみの一番は大阪から来た"Rくん"になりました。

ツツジの蜜は吸わないで:毒のある品種が多い

小学校に入学してからも同じ保育園に通っていた子たちと遊ぶことが多く、お宮さんの裏山を探検したり、他所のおうちの石垣に上ってトンボをつかまえたり、お庭のグミの実を拝借したり、かじった柿が渋柿だったり、ツツジの花の蜜を吸ったり、その辺の雑草を食べてみたり、ダンゴムシを何匹も手の中に隠し持ったり、セミの抜け殻を大量に集めたり、土をほじくって色んな幼虫を発見したり、池に入ってデュルンデュルンの蛙の卵を素手で触ったり。色んな体験をするのに夢中な日焼けで真っ黒の子どもでした。妹が乗る三輪車を後ろから押して、下り坂で足が追い付かなくなって思いっきり転んでケガをしたのもこのころ。顎の傷跡はいまだに残っています。

小学校と自宅の距離は2.5km。登校時はバスがあるのですが、下校時は歩いて帰るというのが日常でした。同級生の中でも通学距離が長く、みんなで帰っても最後はひとり。つまんなーい、と石を蹴りながら帰っていた記憶があります。母は父の事業を手伝っていたので、鍵っ子でした。たまに自宅に鍵を忘れて、秘密の入口 -ちょっと頑張れば登れる場所にある窓なんですけど- から入って、何もなかったかのように過ごしていました。

雪あそび:かき氷屋さんごっこ

たしか小学2年生のころに大雪で休校になり、自宅の2階の部屋の窓から道路沿いの門まで続く滑り台を父が作ってくれたのを覚えています。屋根雪をおろしたのもあってのことですが、庭の松の木が隠れてしまうような、そんな大きな滑り台でした。滑り飽きたあとは、お決まりの雪だるまづくりや雪合戦などはせず、絵の具を溶かしてカラフルな水を作り、鼻水を垂らしながら"かき氷屋さんごっこ"をしていたのを覚えています。

心ときめく小物:まさに、これ!(オークション写真から拝借)

大叔父が某玩具メーカーに勤めていた関係で、おもちゃの商品サンプルを大量に送ってくれていました。お人形や○○ハウスの類がたくさんあり、とんでもない宝の山でした。この類のおもちゃ、ハウスに設置したり並べたりする部品がたくさん付いてくるのですが、この準備作業がたまらなく好きでした。小さなプラスチック部品に所定のシールを貼って、小物として仕上げる。そのあと、ハウスの中にきれいに設置して、ごっこ遊びの準備が整う。ここまでが私の没頭タイムです。
私はお人形遊びには興味はなく、準備・セッティングを延々と繰り返すのでした。シールを貼れるのは一回きりなので、早く新品の箱を開けたくて仕方ありませんでした。我慢できずにこっそり新品を開封して叱られたことは数知れずです。バレないように片付けたつもりでも大人にはすぐに分かってしまうのが不思議でした。

身近な人の真似をする小学校中学年(9歳~10歳)

妹の真似をして始めたピアノ

3つ下の妹がピアノを習い始めました。『ぽこ あ ぽこ』という教材を見ながら話しているのをのぞき込んでみたら、なんだか楽しそう。「わたしも習いたい」と妹に続いて習い始めました。ピアノの弾き語りが母親の趣味だったので、母の隣で歌謡曲やら童謡やらを歌うのが日常。いくらでもピアノを触る機会はあったのに自分が弾くという発想はありませんでした。妹がきっかけでピアノに興味を持ち、その後のめり込んでいくことになります。

お習字やそろばん教室にも通いました。これもお友達の真似です。

お習字で精神統一

祖父と母が達筆なので褒められることはありませんでしたが、静かな空間で、墨の香りの中、正座で背筋を伸ばして集中するというお習字の時間が大好きでした。
毛筆を持つことはほとんどなくなりましたが、文字を丁寧に書く時間は今でも好きです。大人になってからも、手書きで年賀状やお手紙を書くことが続きました。文字の流れを自然に表現できる縦書きが断然好みです。

伝票算は専用ホルダーつき

そろばん教室は、下校途中に自宅以外の場所に立ち寄ることや、「ねがいましてぇは~」という先生の声が好きでしたが、計算が楽しいとは思えず、すぐに辞めたくなりました。母から「自分でやりたいと言って始めたことは、きちんと続けなさい」と叱られて、小学校を卒業するまで通いました。伝票算は何の意味があるのか分からないままペラペラめくって計算していましたし、応用計算は"元金"とか"%"とかよく理解しないまま丸暗記で解いていました。暗算なんかはそろばんの映像も何もなく本当に頭で計算していたので、すぐに限界が来ました。よくもまあ、あんな桁数の乗算・除算をやっていたなと思います。やり方は全く覚えていません。

おこづかいをもらうようになったのもこの頃で、そろばんで計算していましたね。教室で使う長いものではなく、20cmくらいの短いやつで。campusノートに縦線を引いて、お小遣い帳を作っていました。 以降30年以上の期間、家計簿をつけ続けることになります。ノート→市販の家計簿→Excelで自作→専用ソフトの変遷で。つい最近まで口座別費目別に細かく管理していたのは、我ながら過剰なことをやっていたなと。振り返りもせず、ただ記録するのみ。よく続きました。

思い返せば、ピアノも書道も珠算も、昇級・昇段試験が存在する習い事でしたね。”上に行くほど良い・凄い・偉い”みたいな考えは、このころに始まったのかもしれません。

劣等感が芽生えた小学校高学年(11歳~12歳)

漆器卸売業を営む父は、誰かの下で働くのが向いていない人で、『丑寅会』という町の同窓生の会合の会長をしていました。家庭内でも父が絶対的存在とされていました。初老のお祝い会ということで、旅館の宴会場を貸し切り、会社の社員や同窓生とその家族が集まり盛大に開かれました。
母方の祖父母が割烹・仕出しのお店をやっており、お盆時期には親戚が大勢集まっていたので、料理とお酒を楽しむ大人たちに囲まれるのには慣れていました。

子どもながらにお酒を注いでご挨拶回り

この会にあたっては、父と同窓生、我ら子ども3人が、余興のための舞踊のお稽古をしていただくために、地元の芸妓さんのところに通うなんてことまでしていました。温泉場ですし、芸妓さんもコンパニオンのお姉さんも大量投入で、まさに大人の空間です。
決して居心地がよいとは言えないながらも、これも長女の務めだとビールをつぎながらご挨拶回りをしていたときに、父親が隣にやって来ました。なんと父は、私の体型をネタにして、しかも体重まで公表したのです。

当時、わたしはとても太っていました。今の私の体重よりも重かったとお伝えすれば、何となく想像していただけるのではないかと思います。そのときの芸妓さんやコンパニオンのお姉さんを含めた大人たちのやりとりで、自分の体格が笑われる・バカにされるようなものなのだと知り、思わず泣いてしまいました。そんなことで泣くなと叱られましたが、深く傷つく出来事でした。

母のユーモア:トンカツ=豚勝つ

経緯は覚えていないのですが、市の水泳大会の選手に選ばれました。母が市営プールに一緒に行ってくれて、クロールをたくさん練習しました。
大会当日、母が作ってくれたお弁当のメインおかずは"トンカツ"でした。「のりちゃん!豚が勝つよ!」と。順位やタイムがどうだったかなんて覚えていません。泳いだことすら薄っすらです。記憶があるのは、お弁当の件のみ。

愛情表現が独特すぎるだろ!と、今でこそ笑い話ですが、このころから自分の容姿について悩むようになります。
体格もそうですが、髪の毛が天然パーマでぐちゃぐちゃなのです。愛想のいい妹は、きちんとパーマをかけたような柔らかいくせ毛で色素も薄くてかわいいし、元気いっぱいの弟は、かわいらしい顔立ちで髪の毛さらさらストレート。「二人はあんなにわがままなのに。あの子たちに比べて厳しくされるのは、この見た目が原因なんだ」と思うようになり、少しでも気に入られようと、より一層、親の期待どおりに動く努力をするようになりました。
妹弟のお行儀が悪いので、たまの家族での外食は憂鬱でした。

食事中は必ず正座で

両親ともにマナーにはうるさく、特に挨拶には厳しかったので、友人が自宅に遊びに来るときにはルール説明が必要でした。挨拶の仕方、靴の脱ぎ方・揃え方まで細かく事前に説明して、お約束どおりに演じてもらうのです。

同じ町に住む同級生とミニバスケットの練習をしていて、帰りが少し遅くなった日は最悪でした。門の前に父親が立っていて、車から降りた私を叱った後に、付き添いの大人にお礼を言うどころか怒鳴ったのです。みんながいる前でです。わたしは何とも言えない気持ちになって、この日からミニバスケットの練習に行くのをやめました。なんでこんな家に生まれたんだろう、とすら思いました。

優等生ぶっている/大人ぶっているのが鼻につくということで、どんどん友達が減っていきます。特に女の子の友達。どうせ見た目はブサイクだし、親も厳しくて面倒くさいし、仕方ないことだと諦めていました。

そんな私にも学校で一つだけ特別な役割があって、それがピアノの伴奏係でした。6年生が歌うために伴奏をすることになっていた卒業式の日、私はたまたまお腹を下してしまい、母親が学校に連絡を入れました。「どうにかして来て欲しいって言われた!」と母親は激怒していましたが、私は頼りにされていると感じて嬉しくなり、「学校行く」と。母は私に紙おむつのようなものを穿かせて車で送ってくれました。

道路に飛び出してごめんなさい

6年生の冬の日の朝、自分の乗るバスが停留所まで来ていたのが目に入り、思わず大通りに飛び出して。左から何か来て、ワンバウンドして、ザザザーーーっと滑りました。ぽかーんとしている間に人が集まってきていて、その中に母もいました。母からものすごく叱られて、謝って、左腕の袖が破れてしまったアノラックのことを気にしながら救急車で病院に運ばれたのを薄っすらと覚えています。
雪のおかげで軽傷で脳の異常もなく、自宅療養で済んだのですが、事故の翌日には顔がパンパンに腫れていました。
運悪く私とぶつかってしまった車の運転手さんがお詫びにいらっしゃったのがとても心苦しく申し訳ない気持ちでいっぱいだったのを覚えています。ものすごく心配してくださって、「女の子なのに顔にケガをして、跡に残ったらどうしよう」と。私はそんなのはどうでもよくて、元々かわいくもないので、傷跡なんて気にしません。悪いのは飛び出した私なので、ご迷惑をおかけして本当にごめんなさい、とひたすら心の中で謝っていました。

ひとりになりたいのか?迷走の中学生時代(13歳~15歳)

山代温泉:古総湯

私が通う中学校は温泉場にあり、色んな事情を抱える子どもたちが多かったせいか、風紀が乱れていました。制服はセーラー服ではなく、グレーのブレザーにえんじ色のネクタイ。他校と区別がつきやすいようにという説がありました(男子は普通の詰襟なんですが)。髪の毛は結ってはならず、肩につかないように整えておく必要がありました。

父方の実家は理容院

天然パーマの私には実に苦しいルール。父方の実家は床屋さん。継いでいた伯父に、ばっさりとベリーショートにしてもらいました。くるくる。ついでにお顔剃りもやってもらいました。つるつる。父も理容師免許を持っていたので、美容院に通うようになるまでは父に髪を切ってもらっていました。

会社が倒産、家を売る

父親が泣いているところを初めてみました。会社の人たちが集まっていて、父親が頭を下げているのです。あの父がです。これは見てはいけないものだという直感がありました。父41歳、厄年ですね。

休日に父が会社に行くときに一緒に連れて行ってもらうのが好きでした。整然とした執務室も、商品がきれいにレイアウトされている展示室も、塗料の匂いがする作業場も、ダンボールがたくさん積んである倉庫も、大型トラックが何台も停められる広い駐車場も、容赦なく"さようなら"です。
「そうか、お父さんの会社なくなるのか、悲しいな」くらいにしか思っていなかったのですが、自分が生まれ育った家からも出ていかなければならないということが分かり、急に自分事になりました。まだ妹と弟は理解できないだろうからと、私にだけ母から説明がありました。
「うちにはお金がないんだ。わがままを言って困らせてはいけない」と、妹と弟の分まで、さらにいい子でいる努力をしようと決心しました。

中学1年の夏ごろに引っ越した先は、自分が通う中学校のすぐ近くでした。父が再起のために借りることができたのは、職場と自宅が地続きになっている場所でした。日中でも用事があれば親に会いに行けるし、商品を箱詰めするお手伝いなんかをしながら、親の働きっぷりを見ることができました。自宅で偉そうにしている父は、会社でも同じように偉そうにしていましたが、誰よりも熱心に働いているように見えました。
今から思い起こすと、倒産後も引き続き社員やバイトの方々が残ってくださっていたのは、ものすごくありがたいことですよね。"子どものために"というエネルギーは、子を持たない私には味わえないものですが、計り知れない責任感と愛情の賜物なのだろうと想像します。

新たに住むことになった場所はもともと農家のおうちだったので、ものすんごく大きな家でした。思い出がたくさんつまったピアノは売らずに持って来れて、10畳以上の広さの部屋を自分用にもらえて、私にとっては何ら苦労も不便もない生活を送ることができました。

母方の実家は割烹・仕出し

母方の祖父母は、私が初孫だったこともあり、とても可愛がってくれていました。よくひとりで遊びに行ったものです。
お店の引き戸をガラガラと開いて、「まいどさーん。おばあちゃーん、おるー?」と大声で言うと、「のりちゃん、来たんかー」と奥の調理場から祖母の声。なんとも香ばしい、鰻を焼いている香りがします。右手に10席ほどのL字カウンターがあり、パチパチといい音が聞こえる。カウンター内の調理場で祖父が天ぷらを揚げています。
靴を脱いで、左手にある薄暗い階段を駆け上るとクラシックな造りの窓が見え、前室を抜けると10畳間と8畳間の和室。もっと広かったかも。宴会のときは間の襖を取っ払います。飾り棚の中から立派な獅子頭がこちらを睨みつけているのを横目に、畳に正座して袋棚をそっと覗くと、麻雀牌やら花札やら。大人の世界に足を踏み入れているようで、ワクワクしました
東京事変の『緑酒』のMVを見ると、必ず祖父母との思い出が蘇ります。

両親が縋っていたものは何だったのか

両親が何かの宗教にハマっていることに気付きました。あまり出入りしない和室をのぞくと、仰々しい感じで菩薩様がいらっしゃいました。
ある日、母は子ども3人を連れて、珍しく電車で金沢に出向きました。会場の雰囲気が何だか不気味で気になることがたくさんありましたが、母を困らせてはいけないと質問するのを我慢しました。
その日を境に、聞き覚えのないお経を覚えさせられました。これ以上の何かしらの強要はありませんでしたが、トラウマなのは事実です。いつのタイミングで脱退したのかは知りませんが、当時はきっと両親の心の拠り所にはなっていたのだろうと。完全否定はしないようにしています。

自己憐憫に陥っていたのか

当時、親の会社が倒産したことや、親が謎の宗教への信仰心があることを恥ずかしいと思っている自分がいました。色んなことがバレてしまうのを恐れて、おのずと人との会話を避けるようになりました。当時は意地悪で仲間外れにされていると思い、開き直ってひとりでいることを選んでいたつもりだったのですが、今から思うと、自分から孤立する状況を作って勝手にいじけて、ひとりぼっち気分に浸っていただけのような気がします。

打楽器は自分に合っていた

考えていること -ひとりでいい- とは裏腹に、思いっきり真反対"みんなで"の吹奏楽部に入部します。
小学校の鼓笛隊で小太鼓だったこともあり、打楽器を希望しました。本当はサックスがやってみたかったのに、"サックスは人気者がやる楽器"なので私には似合わないという理由で一切口には出しませんでした。しかも家は貧乏なので、楽器は買えません。貧乏なのがバレるのは嫌。無駄な恥はかきたくない。打楽器パートで自分で買うものは、数千円のスティックだけ。コツコツ貯めた自分のお小遣いで買えるものでした。

マーチング用のマルチタム(クオード)

結果として、打楽器パートは私に合っていたのだと思います。打楽器パートって、色んな楽器を演奏できるというのも楽しみのひとつなのですが、何よりやりがいがあるのが、どの楽器をやるにしても自分ひとりでその機能を担うことがほとんどなのです。集団の中で、自分にだけ任された役割がある。時に非常に地味なのは否めませんが。ティンパニーがお気に入りで、ポップスでドラムも演奏しましたし、マーチングバンドも好きでした。クオードという楽器は10kgほどの重さがあって、担いで演奏して動き回るので汗だくです。

光で飛んでますけど真ん中が私

大人になってから趣味で始めたジャズボーカルにおいても、同じ旋律を歌う人が何人もいて合唱するよりも、各パートひとりずつの少人数コーラスのほうが断然好きなのです。じゃあ、自分がソロで歌ったり演奏したりはどうかというと、何かが違う。どうも、楽しさややりがいが半減してしまうのです。分かりやすく主役が目立つものよりも、お互いに同等に作用し合ってハーモニーが生まれるもののほうが好きみたいです。

心の拗れが進む高校生時代(16歳~18歳)

多感な時期に自分の感情を表現せずに過ごした

このころが一番「お前はひねくれ者、顔も性格もブス」と父親から言われた時期です。
標準体型でしたが、顔は相変わらずですし、実際に感情を表に出さなくなっていましたから、自分でも父の言う通りだと思っていました。ちなみに、私の顔は父親にそっくりです。笑えます。

中学の部活で一緒だった先輩の推薦もあり、吹奏楽部・打楽器パート続行となりました。高校入学早々に「難しいけど、のんちゃんやったら出来るやろ?」と先輩が言ってくれて、学年関係なく重要な役割を貰えたことに喜びとやりがいを感じて快諾しました。
『魔法使いの弟子』のグロッケンシュピール -鉄琴の一種- をただ黙々と練習し、淡々とその役割を果たしました。合奏のときに部員のみんなの視線が集まっていることを感じつつ、私は注目されるべき人間ではないのでとスンとした表情で過ごしていました。

いつだったかの定期演奏会で『剣の舞』をやろうということになり、私はシロフォン -木琴の一種- の担当でした。主旋律を演奏するとても目立つ役回りで華やかなので、観客席にいた妹は「あれは、わたしのお姉ちゃん!」と大喜びだったそう。帰宅後に妹が興奮しながら話しかけてくれたのに、私は「そう?」くらいの素っ気ない態度だけとって終了。妹にそんなに憧れてもらえるような人間ではないのです。

気持ちいいくらいに、心が拗れすぎています。

わたしの宝物:Vibraphone&マレット

鍵盤打楽器が得意だったこともあり、大人になってからも習い始めます。道具が必要ないからと、ジャズボーカルから始めたものの、楽器も演奏したくて。歌に加えて『ビブラフォン科』にも入りました。社会人10年目の記念にSaito の楽器を購入。いつか再開しようと、ずっと手放さずにいます。鍵盤の基になる切る前の金属板から師匠が見立ててくれて、自宅への運搬も師匠自らが対応してくれました。師匠が巻いてくれたマレットも宝物です。

ピアノはずっと好きで、中学校も高校もピアノ伴奏は沢山やりました。すんなりお受けするので、先生も同級生も頼みやすかったのでしょう。合唱コンクールの時期になると、私は音楽室でピアノを練習することが増えました。家に帰りたくないというのも若干ありました。そこにちょいちょい同級生がのぞきに来て、ある子はアコースティックギターを棚から取り出してポロンポロンと鳴らして行く、ある子はピアノの傍らで歌って行く、またある子は「何か弾いてー」と話しかけてくる。いま文字にしてみると、同級生が興味を持って近寄って来てくれているように思えてきたのですが、当時は「この人たちわざわざ私が居るところに来て何が楽しいのだろう」と思っていました。

体育祭:幼なじみの指示で校庭で和太鼓を叩く

高校最後の体育祭は幼なじみの"R"がいるクラスと合同チームでした。人気者の彼は応援団長で「のんちゃん、太鼓やってや」「太鼓のソロパートも作ろーぜー」と無邪気に言うのです。彼と私の組合せを不思議に思って周囲がザワザワしたので、私は「親同士が仲良いだけ」と説明しました。ほんと困る。こんな私と幼なじみであることが広まるのは申し訳ないというのに。校庭に集まる全校生徒の前で"R"は宣言通りに私の見せ場を作りました。

こんな容姿で根暗の私なのだから、注目と賞賛を受けてはいけない。これは運や憐みであって、私そのものの価値ではない。

7kmの自転車通学。帰宅のラスト部分は真っ暗な田んぼ道。「暗くて危ないから」と野球部の"T"は何度も自宅近くまで送ってくれました。
雪の日に停留所でバスを待っているとサッカー部の"O"が来て、あったかい缶コーヒーを買ってくれました。彼は自分の乗るバスが来たのにそれを見送って、私が乗るバスが来るまで寒い中一緒にいてくれました。

感謝はしても喜んではいけない。好意の感情を絶対に生んではならない。私に好かれたら不幸だ。せっかく優しくしてくれた人たちに迷惑をかけたくない。

過度に自分の感情を抑えつけることなく、素直に感じて表現することができたなら、もっと楽しく豊かな青春時代を過ごすこともできただろうに。申し訳ないよ、という表情ばかりをしていたと思います。もしやり直すことができるなら、笑顔で感謝を伝えたいです。

ちなみにこの頃の私のことを、弟は「お姉はアンドロイド」と話していたそう。喜怒哀楽がない姉は、人間のかたちをしたロボットのようだと。

待ちの姿勢・自発性ゼロの大学生時代(19歳~22歳)

祖父母の家から一番近いからという理由で選んだ高校は、その地区では進学校だったので、大学に進むのが当たり前の雰囲気でした。私の周りの大人たちは誰も大学に行ったことがなく、驚くべきことに私も大学が何なのかをよく分かっていませんでした。ただ、みんなが行くのに私だけが行かないのはおかしいだろうと、父親に「大学に行きたいのだけど」と相談してみました。予想通り、「(経済的に)ひとり行かせるのが精一杯や。女が大学なんて行かんでいい!」とバッサリ。だよねー、となっていたところ、妹と弟がいつどこで話をしていたのか、自分たちには大学に行ける力がないからと「お姉ちゃんを大学に行かせてあげてください」と父に頼んでくれたのです。私は私で、実は特に勉強したいこともないのだと母に打ち明けたのですが「きっと気の合う友達ができるから。人脈を作ってきなさい」と母は背中を押してくれました。大きな転機だったと思います。

県外も含めて何校か受けたのですが、結局は地元の国立大学に進みました。「親孝行やね」と周りに言われ、祖母も喜んでくれました。よく分からないけど"コンピューター系"をやっておけば就職に役立つんじゃないかと、工学部の電気・情報工学科を受験していました。数学も物理も苦手な奴が選ぶ学科じゃないのに。

陸上部のマネージャー:スタブロは結構重たい

教授から「部活なんかやってる場合じゃないぞー、単位落とすぞー」と言われたのですが、なんとなくの流れでがっつり体育会の陸上競技部に入部することになりました。マネージャーですけど。特に仲が良かったわけではないのに同じ高校出身だからという理由で声をかけてくれた"Tさん"から誘われて。彼女は中学・高校は選手として活躍していたので、既に知った仲の部員が何人もいたようでした。強いオーラを放つ人たちの集まりでした。

100名弱は部員がいたと思います。マネージャーの仕事はなかなかに楽しく。ハードルやスタブロを並べるのも、タイムを測るのも、ドリンクづくりも、部室の掃除も、車を運転していく遠方での合宿も。長距離のタイムをはかるときにストップウォッチを5つくらい操っていたのが懐かしいです。冬の寒い日にはマネージャーは寒かろうと、男前の先輩たちが我らにベンチコートを着せてくれました。優しい...。色んな事務手続きや陸上競技連盟のおじさまたちと打合せして大会の運営をお手伝いするのも良い経験でした。

地元とはいえ通学するには遠かったので、アパートを借りて一人暮らしをしていました。学生街エリアの端のほう。どうも中心地を避ける傾向があるようです。
夜中に宿題をしていると陸上部の先輩から呼び出しがあってドライブに連れて行ってもらったり、土曜日の午前中の練習が終わってバイトに行くまでの間の同級生の休憩場になったり、お米と野菜が実家から届いたから何か作ってと突然の訪問があったり、小学校教員試験準備で練習したいという後輩と電子ピアノで連弾したり。ささやかながら楽しい日常の想い出。

授業は難しかったですが、単位も落とさず無事進級していました。楽勝ではないものの、いつの間にか成績トップ10常連のメンバーに囲まれて過ごしていて、彼らが色々と助けてくれたので。FAXで宿題を見せ合っていたのは時代を感じます。

電気・情報工学科:よくわからないまま実験

話は逸れますが、"コンピューター系"って謎ですね。何を指して、そのような表現をしていたのか。大きいブレーカーがしゃんがしゃんして発電機ぶぉーんとか、回路のはんだ付けとか、オシロスコープで波形見るとか。実験してから手書きのレポートが面倒だったなというのと、授業ではやたら難しい計算をしていたなというのと、フリップフロップ回路ってパタパタかわいいよねいうのと、卒論は音声認識のなんかやったよねくらいで、勉強したはずの知識が全く残ってないことにびっくりです。学ぶということを全く理解しないまま、ただただ時間を費やしているという残念な状況だったことを痛感します。

部活動では、それぞれの種目に応じて鍛えられた美しい肉体の人ばかり。私とは正反対の自分大好きっ子の集まりでした。他のスポーツよりは地味に見えますが、本気の姿がカッコ良すぎる人たちでした。
なんだかんだ素敵な人に囲まれて、私も少しは人間関係が構築できるのだと思えた大学生時代でしたが、自分の意思表示というのはほとんどなかったように思います。成人式の着物も、卒業旅行の行き先も、長電話を切るタイミングでさえも。

主張せず、周りに合わせて、流されて。揉め事は避け、平和が一番の毎日でした。

プレゼン=恐怖の育成社員時代(23歳~24歳)

「工学部は院に進まないと意味ないよ」と言われながらも、学費が払えないし、何より勉強したいことがないので就活組。

就職:まさかの上京

就職先ですら成り行き任せです。大学の推薦枠で私が面接を受けようとしていた会社にどうしても行きたいという同級生がいたので、あっさり譲りました。
次に教授に勧められたのは東京の会社で馬鹿デカい。県外に出ることは発想になかったので親に相談してみたところ「のりちゃんの好きにしなさい」と。誰からも反対されず、特に行きたい会社もなかったので、そのまま採用試験を受けることにしました。社会人25年目、いまだに同じ会社で働いています。

新入社員研修のクラス。同期入社の女性たちの華やかなことと言ったら。鞄も靴もコートも毎日違うって、どういうこと?お化粧上手だし、ネイル美しすぎるし、大人っぽいし、田舎者の私にめちゃめちゃ優しいし。あぁ、いたたまれない。標準語をスラスラ話せないのが嫌で「そうなんだぁ」でやり過ごしました。方言だと知らずに使った言葉が通じずに、恥ずかしい思いをしたことも少なくありません。

見回すと優秀な人ばかり。外見だけでなく能力面でも格段に劣っていて、周囲と比べては落ち込む日々が続きます。社員寮での慣れない集団生活と通勤ラッシュも相まって、するすると痩せました。

このころ”情報セキュリティマネジメント”がブームになっていて、地銀や生保、中央官庁のお客様のところに上司と一緒に出向き、コンサルもどきをしていました。
とても仕事ができる憧れの先輩が会社に来なくなったころ、彼の荷物を整理するように言われた我ら新入社員は『辞職願』を見つけます。衝撃でした。数日後、お父様とオフィスに荷物を取りに来た先輩は、バリバリ仕事をしていたときの姿は見る影もなく、髪はボサボサで下を向いて歩いていて、全くの別人でした。同期入社の慶應ボーイの"N"と落ち込んで、ふたりともランチが全然喉を通らなかったのを覚えています。

緊張してしまったボードルームはこんな感じでした

2年目に出会った5つ上の先輩と仲良くなったことがきっかけで、今まで見えていなかったところに意識が向くようになり、仕事の進め方が格段に変わりました。ただ、避けたくて仕方がない業務も生まれました。何人もの前で話すことです(こんなの避けようがないですが)。
副社長がCISO(最高情報セキュリティ責任者)で委員長、役員が勢ぞろいの委員会でのプレゼンは私には荷が重く、実際にやってみて何度も言葉に詰まりました。

全然向いていない。これは迷惑がかかるからやりたくない。こんなことも出来ないのかとガッカリされているに違いない。馬鹿にされる。できない自分が嫌だ、恥ずかしい。もう私には無理だ。

名古屋の支社に情報セキュリティポリシーの教育をしに行きました。アンケートに「訛っていて聞きづらかった」と書かれており、やっぱりダメじゃん、と。とても責められた気持ちになったことを覚えています。

こんな小さな出来事。私以外、だれひとり覚えていないでしょう。

流暢に喋れなくても、訛っていても、私の仕事では、さほど迷惑がかからないことがほとんど。でも、「あの人、下手だよね」と思われるのが嫌で、話すことに積極的になれません。苦手意識にまみれて、楽しさが分からない。誰かがやってくれるなら喜んでお譲りしてしまいます。

病気と結婚そして離婚の若手・中堅社員前半時代(25歳~31歳)

グループ会社から出向で来た2つ年上の新入社員から、人生初めての猛アプローチを受け、特に気になる人もいなかったのでお付き合いを始めました。

個人情報保護法が成立し、業界ガイドラインも続々と出てきて、色んな勉強会や顧問弁護士の事務所に通い、社内の制度を作って、教育や監査の仕組みを整えました。自分の専門領域が明確になって自信がつき始めた入社6年目の春に異動、お客様先に常駐です。

常駐先:これ関係でした

強烈なタフアサインメントでした。誰もが知っている業界団体の全国規模のプロジェクトで、複数チーム横断で情報セキュリティと個人情報保護の対策を検討する担当者として、言われるままにひとりぼっちで派遣されました。後から知った話ですが、先輩たちが嫌だ嫌だとみんな断ったので、何も事情を知らない私に回ってきたのだとか。
プロジェクトメンバー以外には口外無用の誓約書にサインをしたので、相談相手もいない中、クソ真面目にひとりで取り組みました。チャレンジしましたが、到底無理です。工数というか力量が圧倒的に不足しています。社内の推進とお客様案件では必要なスキルが違う。当時の上司に「私の上に後輩でもいいので社外案件の経験者を付けて欲しい」と懇願しましたが、願い叶わず。下に社外のビジネスパートナー2名が追加され、指示を仰がれるようになりました。

うつ病になってしまった

自宅に仕事を持ち帰り作業していたのですが、いつもは簡単に出来ていたことが全くできなくなりました。体温調整もうまく行かなくなって、悲しくもないのに涙が流れる。
電話で話せる状態ではなかったので、自分の状態と、考えられるだけの残課題を上司にメールしました。ここから2年間ほどまともな仕事ができなくなります。うつ病でした。
周りの先輩や同僚から「気付いてあげられなくて、ごめんね」とたくさんの連絡が届きましたが、反応できませんでした。

お付き合いしていた彼は私のためにジャズ学校の近くに部屋を見つけてくれていました。病気の間もずっと一緒に暮らしてくれていました。休職明け間もなく、結婚しました。こんなに優しくしてくれる人はこの先もう現れないだろうと思いましたし、断る理由はありませんでした。

連帯保証人:とても嫌だったけどサイン

病気のきっかけは仕事でしたが、根本原因は別にありました。仕事中に父親から電話があり「サインしてほしい」と。連帯保証人になれという話でした。当時の私にとっては責任を取れる金額ではなかったものの「絶対に迷惑はかけないから頼む」と言われ、今の会社に勤められているのも大学に行かせてもらったおかげだからと自分を納得させて、実印を押しました。

与えられた仕事から逃げるわけには行かないと思い込んでいました。いい評価をもらってボーナスを貯金して、いつか訪れるかもしれないその日に備える必要があるんだ、と。同期の友達が両親のお金で海外に家族旅行した話を笑顔で聞くのにも疲れていました。私は心の支えである習い事以外はできる限り節約して、毎月お金を貯め続けました。それなのに、いい評価をもらうどころか心を病んで、お給料が激減しました。自分の病気よりも、お金が貯められないことに対して不安が募りました。

早く復帰しなければ。早くお金を貯めなければ。
休職中も仕事のための勉強を続けていたことを主治医の先生から指摘されました。実際、全く身にならない、病気もよくならない、そんな勉強でした。「奥田英朗さんの『イン・ザ・プール』とか面白いよ」などと色んな本を紹介くれました。
中でも『いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法』という書籍。お守りがわりに処分せずに持っています。きちんと読んだ記憶はなかったのですが、先ほど保管場所から取り出してみたところ、付箋がたくさん貼ってありました。そのうちのひとつ"認知の歪みの定義"というタイトルの表が掲載されているページでした。いま学んでいることとリンク。これは、改めてしっかり読もう。

カウンセリング:受けてよかった

病気を治すために、臨床心理士の先生のカウンセリングにも通いました。「自分の嫌なところが見えて辛いかもしれないけど、できそうかな?」と言われたのを覚えています。
話ながら何度も泣きました。お金と他者評価に執着心が強いこと、完璧主義であり自己評価が低いことが分かりました。せっかくのチャレンジと成長の機会をうまく捉えられず、結果、心身が壊れたことが分かりました。

復職後結婚して少し経ったころに父から電話がありました。命を絶とうとしたが出来なかった、と。とても長い電話でした。ひとしきり話を聞き、夫に相談しました。彼は「大変そうだけど、僕の両親には絶対に迷惑かけないでね」と。第一声が、それですか。
彼の実家はそれなりに裕福でした。私の両親が頭を下げる可能性も考えられました。

彼の両親まで守りきれない。約束できない。少しでも自分の肩の荷を軽くしたい。

ここから完全に逃避に入ります。病気の再発はせず、離婚することにエネルギーが注がれました。

思えば病気で苦しんでいるとき「仕事休めていいよね」とか平気で言うような人でした。私はジーンズが好きなのに「スカートしか履くな」と強要する人でした。天然パーマのくるくるが生え際に出てきたら「隣を歩くのは恥ずかしい」と言われました。結婚式のドレスも彼の意見を優先して着たくもないドレスを着ました。ひとりの時間が欲しいのに休みの日はいつも一緒でした。旅行先では私が運転手でした。大きな荷物を持つのはいつも私で、電車に遅れそうだからと私を置いて走り出すような人でした。いつもくねくねして誰にでも甘える頼りない人でした。それでいて頑固者でした。

この人とこのまま夫婦でいていいはずがない。

私の強引さは半端なかったと思います。今までの反動でおかしな状態になっていました。理不尽に一方的に言いくるめて泣かせたあと、自分からは親に話したくないというので、私はひとりで彼の実家に行き、義理の両親につらつらと述べました。「全部私のわがままです、申し訳ございません」と。実家の経済状況は言いたくありませんでした。息子の悪口につながるようなことも言うわけにはいきません。あまりにも中身がなさ過ぎたこともあり「それでは納得できない」と言われましたが、ただひたすらに謝り続けました。見かねた義父が「気付いてあげられなくて、すまなかったね」と、この日はまとめてくれました。

義父とのコーヒータイムが好きでした

私は義理の両親が好きでした。義父は会社役員をしていて、仕事の相談にも乗ってくれる温厚な人でした。コーヒーを飲みながら、趣味のカメラや車の話、リタイヤした同級生が悠々自適で羨ましいという話もしてくれました。義母は専業主婦で、結婚式のときにアートフラワーでブーケや髪飾り、ブートニアを作ってくれました。布を裁断して染色するところからです。「妹に頼んで作ってもらったのよ」と手編みのベルギーレースのリングピローも用意してくれました。義母の影響で、服飾の買い物が増えました。フランス赴任時代からの友人がいるとのことで「一緒にフランスに遊びに行きましょうね」と旅行するのを楽しみにしてくれていました。短い間ですが、密度が濃く、本当の娘のように接してくれて幸せでした。

最後に義母からいただいた言葉。
「世の中の女性は、もっと強くてしなやかよ」
忘れません。当時は悔しい気持ちでいっぱいでした。こんなに強くあろうと頑張っているのに、と。
今なら義母の気持ちが分かります。当時の私は、少し力がかかればポキっと折れそうなほど、柔軟性がなく頑なでした。

義理の両親に離婚について話した日の夜、実家の母から電話がありました。「あんた、向こうのお母さんから連絡あってびっくりしたわ。甘えび送ったところやよ」と。
父親の深刻さと母のこの感じは何なのだろう。甘えび買えるお金はあるのか?父はそもそも母には何も話していないのか?

連帯保証人のサインの話も、母が知らないところで進んでいたことでした。夫婦とは何なのだろう。親子とは何なのだろう。家族とは何なのだろう。そんなことをぐるぐると考えた時期でした。

夫であった彼にもたくさん言い分があったはずです。私はもう理解し合おうなんて気はさらさらなく、この人から一刻も早く離れたい、その一心でした。まずは別居してみようという提案も受け入れず、即刻離婚しました。
残念ながら、私は精神的にとても未熟で自分勝手だったことを認めざるを得ません。

音楽関係者との出会い多しの中堅社員後半・ベテラン社員時代(32歳~38歳)

横浜~湘南はなんだかんだ彼との思い出がいっぱいなので、大好きな街ですが、離れることにしました。

すべての時間を自分のためにしか使わないというのが虚しくなっていたのもあって、引っ越しして間もなく、以前から気にかけてくれた方と付き合うことになりました。
離婚したばかりだというのに、相手が好意を寄せてくれていることが確認できると、自分の気持ちはあまり関係なく受け入れてしまうという悪い癖が、ここでもまだ治っていません。

彼は会社員と音楽家の二足の草鞋を履いていました。平日は夜遅くまで作曲や編集をし、週末はライブやレコーディングの予定が詰まっていました。一緒にゆっくり過ごすことはあまりなかったので、年に数回、近場への旅行を企画してくれていました。遊びに行くことは少なかったのですが、CDのマスタリング作業やジャケットのデザインを検討しているのを横で見ているのは楽しいものでした。

ファンにもらった手作りクッキー:わ、食べるんだ…と思っていました

私のマンションの賃貸契約の更新タイミングを期に、彼のところに引っ越すことになります。リハーサルやレコーディングのために、色んなミュージシャンが来て、中にはテレビやMVで見かける人もいました。「え、知り合いなん?」と一瞬驚きましたが、話してみると、そこら辺に居る人と特に変わりはありません。休憩時間にお茶を出すこともあって、音楽仲間の間では私たちの関係はオープンでした。一方で、彼のファンには絶対に秘密だと念を押されていて。マニアックな熱烈ファンはいるもので、彼女らは都内だけではなく、国内ならどこでも追いかけていきます。仕事の調整や金銭面での問題はないのだろうかというのが素朴な疑問でした。ファンからもらった手作りのケーキやクッキーを持ち帰り、それを口にしている彼を見て、「気持ち悪い」と思っていました。

住み込み家政婦のよう

私は子どもが欲しかったので、そんな話もしていました。7つ年上の彼は、「真剣に考えている。信じて待ってて」と。彼のお母さんから、手編みのセーターと手紙をもらいました。「どうか支えてやって欲しい」という内容でした。私は指定された時刻に出来上がるようにご飯用意をし、掃除・洗濯はもちろんのこと、大量のアイロンがけをこなしました。彼はとにかく忙しい人でした。別々で行動するほうが効率がよいということで、いくら大荷物になろうとも車は出してもらえず、買い物は徒歩か自転車で私一人で行くのがお決まりでした。

彼のライブはよく観に行きました。本当に高い演奏技術を持っていると思います。だからこそ、多方面からお声がかかるのでしょう。お見事です。ただ、一緒にステージに立って即興でやりとりしている様子を見て、「私なんかよりもよっぽど心がつながっているじゃないか」と思っていました。女性相手だと特にそうでしたし、彼が音のやりとりを通じて快楽・快感を得ていることが私にとっては不快でした。自分が演奏の楽しさを知っていたゆえの不快感でした。この生活は5年間続きます。

チョコレート嚢胞(卵巣子宮内膜症性嚢胞)だった

この期間に、チョコレート嚢胞という病気が見つかりました。毎月、月のものが重くてつらいなと思っていたところ、会社で大惨事。オフィスのものを汚さなくて本当によかった。帰り際で、しかも寒い時期でコートで何とか目立たなくできたのですが、お気に入りのパンツスーツは血まみれでした。病院で検査すると、卵巣が7cm近くになっていました(正常な大きさは2~3cm)。手術したほうがいいが、ギリギリ薬で様子見することも可能だと言われて、薬を選びました。病気で会社を休むのは、もう嫌でした。

ひとり時間が多いので、もともと好きだったお酒を楽しむ時間が増えました。ひとりで飲み歩くのが気楽で、銀座や有楽町のお店によく出没していました。酔った後に終電間近の電車に乗るのがおっくうになり、住まい近辺で飲むようになります。

ライブは楽しいけどお金をとるのは辛い

プロのギタリストが経営されているお店にたまたまお伺いして以来、頻繁に通うようになり、そこでひとまわり近く年下のベース弾きの男の子に出会いました。
彼は音楽で食べていくんだと鹿児島から上京したばかり。どんな目標があって、いまこんなことに取り組んでるんだ、誰に会ってどういう約束を取り付けるんだ、という話を聴くのが好きでした。「宣言通りやってきたよ!」という話を聴くのも好きでした。
あるとき彼が、「のりねぇ、ライブやろうよ」と誘ってくれて。どなたかのライブに出させてもらうことしかなかったから「30代前半で一度は自分のライブをやろう!」と秘かに思っていたことが、あっさり実現しました。素晴らしいギターとフレッシュなベースとともに。
何度かライブはさせてもらい楽しめましたが、自分の歌にお金を支払っていただくのがどうも心苦しく、長くは続きませんでした。
当時懐いてくれていたその男の子は、いまではソロやユニットで活動し、数々の有名アーティストのツアー、レコーディングにも参加している立派なプロのベーシストとして活躍中です。

潜在意識は何を求めているのか

病気をしてから自分への期待値が下がり、自分を必要以上に大きく見せようとすることがなくなりました。お酒は強いほうで、人見知りもあまりしないので、たくさんお誘いをいただき、色んなお仕事をしている人とお会いする機会が増えました。
四谷三丁目のお店で話しかけてくれたのは、見た目と中身のギャップが最高に楽しい女性。日本酒好きの美人な音楽家・ピアニストでした。共感覚を持っているらしく、年齢不詳で不思議なオーラもありました。
何はともあれ音楽関係の引きが強いです。

私はよっぽど音楽で何かを成し遂げたいと思っているのでしょうか。
ステージに立って注目と大きな拍手を浴びたいと思っているのでしょうか。
有名人になりたいと思っているのでしょうか。

お金の話はもうお断りです

仕事中に父親から電話です。父からの電話、いい話だったことがありません。
父は、倒産後に事業を立て直し、私が大学に通っている間に再び一軒家を建てました。見栄っ張りの父親らしい、立派な家でした。「あと800万円さえあれば自宅を手放さないで済む。終の棲家にしたいから、どうか頼む」と。気持ちは分からなくはないですが、これ一度で終わる気がしませんでした。自分が全く関与していない商売の話で振り回されるのがもう我慢できませんでした。ほとんど住んでいない実家には、生家に比べて特に思い入れはありませんでしたし、何より、両親に対して、どこか冷めた感情がありました。はっきり言って見下していました。
離婚することを伝えるために夫婦で帰省したとき、父は私を罵倒し、母は彼を抱きしめた後、彼に向かって土下座をしました。なんだこの人たちは、となったその日が両親に対する感情の変化点だった気がします。
父からの電話の後、すぐに帰省して、私の全仕切りで緊急の家族会議をしました。お嫁に行った妹も同席で。会社の会議さながらに、議事録まで作りました。
さぞかし魅力的な話だったのでしょう、持ちかけられ口車に乗ってしまった父はバカモノです。結局、父は2回も自分の建てた家を売り払うことになるのでした。
私はこの時点で20代の頃に書いたサインと押した実印の責任を果たし、今後一切、この手の話に巻き込まないで欲しいと線を引きました。離婚したときの彼らの態度への仕返しも含まれていた気がします。

以前の専門領域での居場所はなくなり、新しい領域でやり直し

仕事はというと、病気をしてから業績を盛り返すことはなく、同期にも大きく後れを取っていました。情報セキュリティマネジメントや個人情報保護の領域での居場所は既になくなっていて、雑用含む、裏方全般が自分の業務になっていました。
組織統合の話があがり、オフィス移転や職場環境整備、共通業務の集約化等による各担当の負荷軽減など、新組織立上げに関する取組みのリーダーを担うことになりました。当時、コーポレートスタッフでないと取得できないと言われていた総務業務の社内資格を、この取組み+αをアピール案件にしてチャレンジしました。全社的にまだ少ない社内資格を現場スタッフで初めて取得できたことで、少し元気が出ました。お金や評価に執着していることは認識していても、それを取り除くのはなかなか難しいものです。たかが社内資格ですが、公式なプロセスを経て認められたことは、素直に嬉しかったです。

劣等感:出産と育児

会社では、"結婚して子どもを産んで管理職になり更にキャリアアップしている女性"が正解になっていました。私のような”子を持たない女性”は条件を満たしていないというか足りていないというか、そんな目で見られている気がしていました。
今でもそう感じていますし、実際にちょっとした区別がなされます。出産・子育ての経験がないと分からないことは残念ながら存在します。こればっかりは仕方がないです。22歳のときに私を産み、3人の子どもを育てた母と自分とを比較して、「自分は母よりも劣っている」と無意識に自分に言い続けているように思います。
「信じて待ってて」と彼は言ったので、待っていれば私も子どもを産める。子どもを産めば、一人前の女性として認められる。そう思っていたのです。心底恐ろしい。子どもが欲しいのではなく、子どもを持つ自分になりたいだけでした。

どす黒いかすがいが打ち込まれていました。こんな心持ちの人間に子どもができなくて本当によかった。
あるとき、いつまで信じて待てばいいのかと、ストレートに彼に訊きました。「まだ自信がないんだよ」と泣かれました。責任が生じることや自由が奪われることを恐れている人であることを知っていて、わざと訊きました。ただ目の前の人を追い詰めたかっただけのひどい女です。

しばらくの間、家庭内別居状態になりました。彼は私のことを便利な道具としてしか見てこなかったのだろうなと感じていました。一方で、家事さえやっていれば住むところに困らないと考えていた私も、彼のことをを利用していたのだと気付きました。会話はほとんどなかったものの、彼は一度も私に「出ていけ」とは言いませんでした。
ようやく次に住む部屋を決め、私はこれまでもらったサイン入りのCD、そして、彼のお母さんからいただいた手紙とセーターをきれいに整えて、お世話になった部屋を後にしました。
その後、彼は会社員を辞めて、いまは音楽一本で生活しています。

管理職になったけど、きっと私は数稼ぎ(39歳~42歳)

英語から逃げ続けている人生

高校で理系コースを選んだのは、英語が苦手だったからでした(理系こそ英語が必要とは知らず)。
入社してからも逃げて逃げて、3年目のときに軽く捕まり、やむを得ずシカゴ出張へ。全然喋れない。同期と一緒に行ったので、無事に帰って来ることができました。
その後も逃げて逃げて逃げまくって、ここでまた捕まります。海外に行くのが嫌なわけではなく、日本語以外が無理。海外赴任者のサポートということで、現地の人とやりとりが必要なので、英語ができないなんて致命的です。読み書きができればいいからと、容赦なく人事配置されました。いや、読み書きすらできないんです。「ジャズボーカルやってるのに?」と不思議がられますが、それとこれとは全く別なのです。勉強しようも続かずで、情けないことといったら。

ビルマ数字:ノートに挟んでいました

英語が必要になるのは、出向に関する契約書の調整、給与や経費の処理くらいで、すべてメールなので大したことないと思われるでしょうが、私にとっては大したことで。現地の日本人(偉い人)や隣の担当にいる先輩に頼りまくって処理を進めていました。「この内容、英語で送らないと帰れないんです」とゴールデンウィーク前に、先輩に泣きついたこともありました。
唯一ほっこりしたのは、ミャンマーの担当者とのやりとり。先方もネイティブじゃないので、お互いに拙い文章だと分かっていました。請求書の金額がビルマ数字で書かれていたので、数字の一覧を手帳に挟んで読み替え作業をしていたのも想い出のひとつです。

女性管理職数を増やさねばなりません

上司から呼ばれて、管理職任用にチャレンジするように言われました。「いまさら?」です。人事評価や任用のオペレーション業務もやっていたので、チャレンジできる枠数が部署ごとに厳しく設定されていることを知っていました。もっと若い人に譲ってくださいと話していたのですが、「あー、女性管理職数ですね」と察し。上司も苦笑い。私が受かれば、上司の評価が上がります。組織や会社の目標達成にも貢献できます。ほぼ義務感。
半年くらいかけて、結構ハードな試験が繰り広げられるのですが、ディスカッションという名の戦いで。基準も不透明だし、もっといい選考方法はないものかしら。私の同期のお友達も、少し上の先輩も、この戦いに嫌気がさして転職しました。優秀な人たちだったのに。
最近は女性社員数も増えてきて、こういう無理矢理なことはなくなりましたが、何とも嫌な時期でした。

数稼ぎだったからでしょう?という見方をしていたこともあり、管理職になってからも大した仕事はしていませんでした。思い出せないくらい。ただの人事関連業務の御用聞き。

1つだけ印象に残っているのはインターンシップ生の受け入れです。人事のお仕事でインターンシップ生を受け入れる事例はなかったので、やってみようという話になりました。「新任課長だから、あなたがやりなさい」とのことで。私には部下がいなかったので、隣のグローバル育成チームの"Yちゃん"に声をかけました。
「グローバルで活躍できる人材をどのように発掘・育成すべきかについて提言・提案しましょう」というお題で募集をかけ、何名か応募があった中から、学生2名を選びました。たまたま全員女性のチームです。部下が3人できたようで、私は俄然張り切っていました。ステークホルダーが多い仕事や1対1でコミュニケーションを取るといった経験はあるものの、自分のチームを持ってみんなで取り組むという経験は少ないのです。
インターンシップの対応は、日常業務に上乗せされたため時間的には厳しくハードなのですが、準備など含めてものすごく楽しい!仕事中に楽しいと思ったのは初めてでした。
海外赴任の関係者に事前にお願いをして、学生がヒアリングするための時間を取ってもらっていました。インターンシップで来てくれた彼女たちはとても熱心で、会社に来る日以外でも書籍や公開資料などで情報を集めたり分析したりして、ヒアリングに臨んでいました。
立派に成果発表会も終えて、打ち上げをして。彼女たちは心のこもったお手紙とプレゼントを私たちに用意してくれていました。"Yちゃん"と私は涙です。
そのときの学生さん2名は、当社に入社し、今はバリバリ大活躍中です。

期間満了して古巣へ戻る

管理職になったときの所属はもともと期限付きのものでした。グローバル戦略チームのトップだった仲良しの先輩(英語の文章を代わりに書いてくれた人)が私の古巣の組織長になったタイミングで、私も組織長スタッフとして古巣に戻りました。非常にやりやすい。
組織長スタッフは大きく"戦略系"と"その他系"で分かれていることが多く、病気で休んで以来ずっと、私は"その他系の人"です。"戦略系"は、次のキャリア・出世に繋げる経験を積むためのポジションとして扱われることが多いので、私には縁がありません。"その他系の人"は、バックオフィス関連を何でもやります。誰の仕事でもないようなことや、すき間に落ちるようなことは全部拾う立場です。様々な制限がある社員が最も多く所属する場所でもあります。
管理職になった直後の御用聞きよりは当事者として組織に入り込めているので幾分マシでしたが、私自身この仕事に誇りを持てておらず、"この程度の仕事"、"誰でもできる仕事"という見方を心のどこかでしていました。表面上はとても真面目に取り組んでいましたが、本音が伴っていませんから、直接手を動かしてくれている当時の部下たちには良くない影響があったと思います。

この数年後、"その他系業務集約"の施策のリーダーを担うことになるのですが、その際にも"戦略は頭を使う人"で"その他系業務は頭を使わず作業する人"というような言い方で組織内の各所から表現されて、やっぱりそういう風に見られているのかと落胆することになります。
その他系業務でも頭は使うんです。想像力や感受性のない人には務まりません。バックオフィス業務がないと組織は回りません。

社員の相談に乗るのはとても好き

色んな制限がある社員を部下に持ちながら、組織に所属する社員の諸々相談窓口的な役割もあり、私自身が病気休職歴があることをオープンにしていたので、いろんな相談がありました。上司経由のものもあれば、本人から直接も。キャリア相談もそこそこありましたが、心の問題を抱えているケースがほとんどでした。職場の人間関係、セクシャリティ、身体の健康状態、そういったデリケートな話題が多数。彼ら・彼女らからは、基本的にネガティブな感情が出てくるのですが、普段は見せない、その人の奥にしまってあるものに触れる時間は貴重でした。安心して何でも話せる対象として認知されているのも、私の居場所が確保されているようで安心感がありました。

森林セラピー@智頭町:お気に入りの木

健康推進施策を鳥取県の智頭町と検討しているとのことで、総務系の管理職に召集がかかりました。「各部署1名ずつ、体験に行ってきなさい」という話。要は、"心の疲れた人向けプラン"で、森林セラピーとか民泊とか。
大雨の中ずぶ濡れになりながら草刈りしたり、初めましての女性と初めましてのお宅に民泊したり、畑で野菜を取ってきて天ぷら作ったり、赤しそを塩もみしたり、民泊先のお父さんと日本酒を飲んだくれたり、木と土の香りや川のせせらぎで癒されたり、森でお気に入りの木を見つけて会話したり。合間合間にグループワークみたいなのもあった気がしますが、普通に1泊2日田舎に帰省してきた感じです。
山村再生と地域活性化に力を入れていらっしゃり、関係継続したいものの、こういう取組みは、本当に疲れて余裕のない人に上手にオススメするのが難しい。次の年も、結局総務系のメンバーが行っていたように思います。

コロナ禍をきっかけに手を出したのは占いグッズ(43歳~46歳)

東京オリンピック2020に向けて、バックオフィスチームとしては働き方改革の話を進めていました。働く場としてどのような設計がよいかの議論の中で、「やっぱり全員が在宅勤務なんて無理だよね」という話もしていました。そんなことを言っていたのに、強制的に全員テレワークに。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行です。テレワークは従来から導入しており、それなりに環境が整っていましたが、ほぼ全員が一定期間ずっと在宅勤務で業務継続するということはありませんでした。これくらいのことが起こると、できない理由を挙げている暇なんてなく、なんとかできるようにするという強い力が働くということを身を持って実感しました。

コロナ禍:大好きな焼き鳥はお預け

コロナ禍になり、ON/OFFの切り替えができないとか、孤独感・孤立感があるとかで調子を崩す社員が増えました。私自身は、会社帰りに自宅近所の串焼処でパートナーと合流して飲んで帰るという日課がなくなって激痩せした以外は特に心身に影響がありませんでした(コロナが明けたら体型は簡単にに元通りです)。
"孤独感"に関する学びやヒントを求めて、ネット上で直感のまま動き回ることに。人事系カンファレンスのセッションでたまたま耳に入った"聴く"に着目した社外1on1の会社に副業で登録してみたり、カラオケアプリをダウンロードして歌好きと繋がってコミュニケーションしてみたり。

この動きの中で、私は"占い"に出会います。テレビの占いコーナーや雑誌巻末の占いページを読んだことくらいはありますが、個人的にはあまり興味・関心のなかった世界。むしろ、うさん臭くて近寄りたくない世界。
面白半分で西洋占星術の無料講座を受講していたら、カウンセリングの世界とリンクする部分があって、ちょっと興味を持ってしまいました。副業で登録した社外1on1でも、会社での面談でも、自分の気持ちを言葉にするのが苦手な方が少なからずいらっしゃって(私も決して得意ではないのですが)、なるべく私の主観を入れずにクライアントのそのままを一緒に見る・感じるツールとして使えそう、と。いきなり占いを持ち出すことは考えていませんが、いつかどこかで役に立ちそうだと感じました。置かれている状況や思考・感情の整理をするためのヒントを与えてくれそう、と。

最も代表的なウェイト版タロット

西洋占星術とタロットには深い関係性があるようで、タロットカードにも興味を持ち始めます。西洋占星術のチャートを読んだり、何種類もタロットカードやオラクルカードのデッキを購入したりしている私を見たパートナーから、「大丈夫?変な宗教にハマってない?」と心配されました。まさか、自分がトラウマになった出来事を想起させるような言葉をかけられるとは。
4つのエレメントと呼ばれる"火・土・風・水"を始めとした、色んな視点の分類があったり、それぞれ違う図柄のカードだけれどデッキごとに統一感があったり。子どもの頃に好きだった、図鑑や色鉛筆とも繋がるんですよね。秩序とカオスの同居に美しさを感じて、好きなんだよな。チャートやカードを見てインスピレーションで言葉にするところとか、自分のクリエイティビティを使ってどんな読み解き方をしても正解になるところとか、とても楽しいです。

私が古巣に戻ったときに受け持つことになった、病気休職中の社員がいました。メンタル系。彼女のことは昔から知っていたので気楽に考えていたのですが、過去にケアした中でも難易度が高めの社員でした。
彼女はパワーストーンが好きなので、占いの話をしたところ、楽しそうに会話してくれました。一方で、体調や精神状態のほうはあまり思わしくなく。
彼女は会社で取得できる休職期間満了まで残りわずかで、このままでは会社を辞めなければならない状況でした。その状況を説明したところ、主治医の先生が復職可の診断書を作成してくれたとのことで。彼女の場合、素人の私から見ても、まだダメな状態でした。産業医と主治医の間でやりとりしていただきましたが、本人と同居している家族も復職に向けた対応に同意したので、適応観察開始です。
100%オンラインでの観察が難しいので、コロナ対策はしっかりした上でオフィスに来てもらうことになりました。決まった時刻までに出社し、所定時間オフィスで過ごすことが第一ステップでした。チャレンジしてみたものの、「周囲の目が気になるので帽子をかぶって電車に乗っているがつらいので通勤訓練は中断したい」「自分の特性上、会社が求める仕事と相性がよくないから辞職したい」とのことで。「仕事がうまく行かないのは上司(わたし)の指示が悪いせいだ」となり、私にだけLINEで苦情や文句を長文で送ってくるなど静かに狂暴化するなどの状態を経ての結果でした。
産業医と保健師からは「きちんと対応した上での本人の決断。よりよい環境に送り出すサポートをしたと考えてよい」と言われましたが、なんとも後味の悪い経験です。

このころに始まった話ではないですが、上司の顔色を伺いながら上司の気に入るような仕事の仕方をしているのがどうにも気持ち悪くなりました。自分が所属している組織の当時の役員と話すたび、言葉の節々に棘を感じ、毎回馬鹿にされている気持ちになっているのもあって。
気分転換にと思い、普段の自分とは違うことをしようと、オンラインで参加できるゼミにも参加してみました。新しい場所に飛び込むのは苦手ですが、"経営者"の方と対等に話してみたくて、経営者でもないのに『経営コース』へ。ゆるめのゼミでしたが、自分が考えていることを具体的な言葉にしたり、仲間たちから率直で愛のあるフィードバックをもらったり、他業種の方との交流という意味でも良い経験でした。
そういえば、このゼミの仲間にも占いができる人がいて、彼女は"アカシックレコード"をリーディングできるらしい。私にはそういった特殊能力はないですが、瞑想などが上手な人の中には私がまだ見たことがないものが見えるのだろうなと思っています。

MCAをきっかけに人生シフトチェンジ(47歳~)

はじめての手術:すぐに麻酔が効きました

チョコレート嚢胞で破裂しそうだった卵巣がほぼ正常な大きさになり安心していたところ、人間ドックの結果が届いて、別の箇所に癌の前段階の細胞が見つかりました。すぐに手術したほうがよいとのことで、上司に相談して数日間お休み。ちょちょいと切るだけの手術でしたから大したことなかったのですが、人生初めての入院と手術にちょっとドキドキしました。
手術後がつらかった。大好きなお酒も全然欲しくない。1ヶ月ほど、元気のないまま過ごしました。

ハイパフォーマー/ハイポテンシャル人材がお相手

2024年4月。業務がガラリと変わりました。自組織のリーダー人材開発のしくみの立て直し。
数年前に人事の即戦力としてキャリア採用で来た人が新しい上司で、私はその人に教わりながら施策を進める役割を仰せつかりました。いままで人事関係の仕事といったらオペレーションのみ。「上司に色々と教わりながらなら何とかなるかな、自分でも勉強しよう」とネットサーフィンしていたところ、マインドセット株式会社の代表である李さんに出会えました。YouTube 動画を全部見て、戦略人事の動画を購入しました。Mindset Code で自分の Want to に向き合い、サロンにも入会し、MCA11期の募集開始後すぐに申し込み。何の躊躇もなく、あっという間の出来事でした。
ここまでためらいもなく進んだのは、頼りにしていた上司がまもなく転職することを知ったから。とんでもないサプライズでした。
取り扱う情報の特性上、今回の人材開発の施策は管理職以上で進める話になっていたので、メイン業務は部下なしのひとりぼっちなのです。とはいえ、私は同じ会社で働き続けて25年目。いまや先輩や同期が各組織の組織長や重要ポジションにいること、すでに信頼関係ができていて協力を得やすいことなどに感謝しつつ、なんとかやるしかありません。

人事の仕事をしていると、見たくないことや聞きたくないことに少なからず出会ってしまいます。公正さに欠けるシーンがまったくないとは言えず。公私混同が垣間見えます。
人脈があるとはいえ、対立関係になった場合には、今の私では弱すぎる。何か言っても、飛んできたハエのように払われてしまいます。もっと力をつけて、誰とでも対等に話ができるようになりたい。

とにかくやってみよう

これまでは、面倒でやりたくもないことでも素直に受け取り、上司の言いなりになって従順に過ごすことを心掛けていました。
ですが、MCAで様々なことを学び、実践する中で、自分のやりたいこと&組織や社会のためになることで、しっかりポジションを取っていくような動きに変わりました。
わたしが見ていた世界、なんて狭くて暗いものだったのでしょう。

わたしの人生これからだ

コーチと一緒につくるゴールが自分の世界を変える

親、先生、パートナー、上司、お客様、、。彼らが設定して与えてくれた沢山のこと。
それを真面目にコツコツと努力して積み重ねて。
うまくできたら褒めてもらえて、高く評価されるから気分が良くなって。
他人の期待に応えることが、自分にとっての喜びなのだと思い込んで。

そんな日々を心から幸せだと思えるのであれば、それでいい。
いい人生だったと本音で感謝できるのであれば、それでいい。

人間が生きる理由って「理解されること」だそうです。
あなたは、本当の自分をどれだけの人に理解されていますか?

  • わたしは、クライアントが認識していることをそのまま理解します。

  • わたしは、クライアントが認識できていない課題や魅力をご自身の目線で理解することをお手伝いします。

  • わたしは、クライアントがまだ見ぬゴールをともにつくり、伴走します。

このまま着実に積み上げていけば想定できる未来ではなく、ひとりで考えているだけでは想像すらできなかった未来や生き方というものに興味がある方は、ぜひお気軽にご連絡ください。

セッションの申込みやお問合せはこちら ※@を半角にしてください
📩 noriko.toricoach@gmail.com

わたし自身、いろいろと応援してくれる大切なパートナーとのこれからや、人間関係、趣味、知性、社会貢献、健康、ファイナンス…。まだまだやりたいことが出てきています。
楽しいだけではない、苦労はたくさんあります。
そんなカラフルな日々を過ごし「やりたいことを通じて成長し続ける喜びを味わい尽しました!ありがとう!」と胸を張って言える人生にすると、わたしは心に決めています。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集