かもめ食堂にて。
3連休最終日。うん10年振りの「かもめ食堂」に入店。
ヘルシンキに辿り着いた理由も様々な3人だが、取り立ててその理由を深く聞くこともなく、でも寄り添いはするという絶妙な3人の距離感が好きだ。
理由をしつこく聞かないこと、過去をあれこれ詮索せず今目の前にいるその人をただ見る姿はむしろ逆に優しさを感じる。
映画を観る側に対してもそれは徹底している。物語の登場人物に対して湧き上がるであろう「なぜ?」の答えを一切出さない。最後の最後までそれはあなたの解釈に任せますと言わんばかりの姿勢を貫き通し、物語は終わる。
かもめ食堂で私が受け取ったものは「生きてると色々な事が起きる」ということは”普通のこと”であり”特別な事ではない”、ということ。
だからこそ、いちいちギャーギャー騒いだりこねくり回したりせずに、とりあえず飯でも食って考えますか、でいいじゃないかと。
起きることに様々な色をつけているのはいつも自分自身の感情である。
フィンランドっていったらサーモンだから、おにぎりがメインの店でイケるよね!っていう軽いノリでヘルシンキにお店出しちゃうことも、地図を拡げて指を指したのがここだったからって理由でヘルシンキに来ちゃったってことも、遠い地でロストバケージして全然手元に届かなくって、あれ私いつ日本に帰れるんですかね?状態でも「ま、ゆっくりいきましょう」とのんびり構えられる時もある。
ここで「それやばくないですか?」「大丈夫なんですかそれ?」なんてあくせく考えたって仕方ない。一旦横に置いて、腹ごしらえしてまた歩く。
もしかしたら、そういうことを人生と呼ぶのかもしれない。