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慈悲の心のストッパーが外れた話


先月、
私は自分の中の世界の平和を願う気持ちを、どう扱ったらよいのか、
という問いをもって、三重の旅へ、伊勢神宮へ行ってきました。


そこで直接の答えが得られたわけではないのですが、

全てのものが並列に並んでいる感覚

は、今もとても強く私の中に息づいています。


特別なことは何一つない


良い悪いとか、
正しい間違っているとか、
優劣とか、

それは勝手に人が決めたことであって、

全てのものは、ただ『ある』ということ。


その感覚を持ち帰ってきて、
師匠のパーソナルセッションを受けたら、
自分の中で全てがつながって、すごいことが起こりました。



慈悲の瞑想ができなかった私


今まで、私は慈悲の瞑想ができませんでした。
世界中の人々の幸せを願うことが辛かったからです。

今この瞬間にも、世界で戦争に苦しんでいる人たちがたくさんいることは事実で、
それに対して、現実的に私は何一つ貢献できてもいないというのに、
この安全な場所でぬくぬくしながら、ただそれを願うだけということが、
あまりにも無責任な気がして許せなかったからです。

そんな自分をとてもじゃないけど許せなかった。


でも、そんな思い、自分に対する厳しさは
三重から帰ってきた時には自然とほどけていました。

自分も、世界中で苦しんでいる人も、全てが並列に並んだからです。
私もどこかのあなたも同じ。
みんな幸せでありたい。

だから、安全な場所で何にもしていない私でも、
世界中で苦しんでいる人々が幸せであるようにと願っていい。

そう素直に受け止められるようになっていました。




でも、最後に残ったのは、
世界で戦争などの加害者側にいる人に慈しみの心を向けることができない
ということでした。


なぜ人を傷つけるのか


きっと加害者にも何か大切な守りたいものがあるのだろう、
ということは頭ではわかる。

でも、なんでそんなことをしてしまうのか、心では理解できない。
許せない。

人を傷つける人を許せるようになってしまう、
そんな自分も怖かった。

そこには、私の友人が亡くなった時の、
やり場のない思いも関係していました。


加害者にも慈しみの心を向けるためのトレーニングは必要か?


私が苦楽を共にして、尊敬していた友人が、
海外で自爆テロに巻き込まれて亡くなりました。
数年前、突然の訃報でした。

いつもとびっきり明るくて元気で、みんなから愛されていて、
その場にいる人をみんな笑顔にできてしまうような人でした。

「死」というものから一番遠く思えるようなあの人が。
まだ小さな子供たちを残して、突然に。


なぜ死ななければならなかったのか。


あまりに理不尽すぎて、ずっと理解ができませんでした。
この世に神様なんていない。
そう思いました。



師匠は、パーソナルセッションで、
慈悲の瞑想は『トレーニング』だとおっしゃっていました。


全ての人に分け隔てなく慈しみの心を向けられるようになるためのトレーニング。

人の命を奪った人にも、慈しみの心を向けるためのトレーニングは必要?

それは、私の心が、到底受け入れられるはずもないようなあの事実を、
受け入れられるようになってしまうことのような気がして、
自分が怖かった。

そんな私の中の抵抗している声を師匠にそのまま伝えました。


偶然そこに生まれたということ


すると師匠は、こうおっしゃいました。



私は今、偶然ここに生まれ、偶然この環境で生きている。
加害者になる人も、偶然そこに生まれ落ちて、いろんな経験をして、そういう思い込みを持っている。
自分と全く別の世界の人とは思えない。

どこかで何かが狂って違う選択をしていたら、
自分にもそういう心があるのかもしれないと常に思っている。

そういうことになったのは、全部その人の自己責任とは思えない。




確かにその通りだと思った。
自己責任ではない。

頭ではわかる。

でも、果たして、私の心がそれを受け取れるのか。


そして、その後、少しおしゃべりをして、
師匠は私のために、共感瞑想と慈悲の瞑想を誘導してくれました。

その時、そこにいた私のために、
師匠が自分の中にあったものを差し出してくれて、
私はそれを受け取って、自分の中で循環が生まれました。

いろんなものがつながって、ずっと悩んでいたことが、
誰に相談しても解決できなかった心のしこりが、
スッと、自然にほどけていったのです。

言葉でいくら説明されても、絶対に自分ではたどり着けなかったところに、瞑想を通してたどり着くことができたように思います。


その時の瞑想を通して私の心が動いた様子を、
そのままの形でここへ残しておきます。

私自身がこれから自分が生きると決めた道を振り返れるように。

瞑想を通してたどり着いた自分なりのコタエ

①私が幸せであることの罪悪感


私は偶然この家に生まれて、この環境で育って、人にも恵まれ、
自分のこれまでの人生に何ひとつ文句がありません。
自分はなんて恵まれて生きているんだろうといつも思っています。

そして、私はそういう自分のことが本当は好きなんだなと思いました。


でも、世の中には、偶然に恵まれていない環境に生まれ、
避けられずに自分の望まない道を歩んで来たと思っている人もいる。

自分が幸せであることに対する、ものすごい罪悪感。


私はこれまでに、
私の幸せに対して、それをよく思わない人たちからの負の感情も少なからず受け取ってきました。

妬まれる、嫌味を言われる、嫌われる。

直接的に攻撃を受けることはめったにありませんでしたが、
私は他人のささいな感情をかなり敏感にキャッチしてしまうので、
私が幸せであることで、周りによくないものを振りまいてしまうらしいということを経験則で学んできました。

だから、自分の身に起きた幸せなことを決して他の人に言うことができませんでした。

私の幸せは他人を不幸にさせる。


私はずっとそう思って生きてきたんだなぁ
と瞑想しながら改めて自分の人生を振り返りました。


②行動と人を分けて考える ~全ての人の幸せを願う気持ち


次に、たまたま恵まれない環境に生まれ落ちた人のことに思いを馳せました。

人を傷つける『行動』は決して許すことはできないけれど、
人を傷つけてしまった『人』自身には慈しみの心を向けることができると思えました。

たまたまその境遇に生まれて、その人も苦しんでそうなったのだろう。
その人も幸せであれたらどんなによいか、
という気持ちが自分の中から自然と湧いてきました。


そっか、こういうことなんだ。


その人自身の存在と、表に現れている行動とを切り離し、全ての人の幸せを願う感覚。
そのことをを頭で理解するのではなく、その感覚をようやく自分の心で感じとることができました。

③世界を切り分けない ~分け隔てのない慈しみの心


私は、今まで戦争のない世界、苦しむ人のいない世界を願っていました。
でも、それは、『人を傷つける人』をこの世から切り分けて成り立つ世界だったということに気づきました。

そういう人がいなくなったらいい。
分け隔てのない、無条件の慈悲の心ではありませんでした。
だから、私の中に苦しみが生まれていたのです。

分け隔てなくっていうのは、こういう感覚なんだ。
世界の平和を願うって、こういう感覚なんだ。



戦争や人を傷つける行為が、この世界からなくなることはないのかもしれない。
でも、どんな人にも、自分が幸せでありたいと願う気持ちはあっていい。


世界中の人々は、みんな私と同じ人間。
だから、全ての人が幸せであることを私が願うことはできる。

そう思えました。


④私も幸せであっていい


そう考えると、ふと、
『私』自身も、世界の中で『切り分けられる側』に入っていたということに気づきました。

私の幸せは、誰かの不幸につながる。
だから、私は幸せであってはいけない。
ずっとそういう心のブレーキがかかっていました。

そうか、私は勝手に自分で自分を切り分けていたんだ。
でも、私もみんなと一緒。
幸せであっていいんだ。

自然とそう思えました。


ぐるぐるといろんなことがつながった瞬間でした。
たった10分のうちに。


分け隔てなく無条件に慈悲の心を広げる
その輪の中に自分も入っていて安心できている感覚

全ての幸せは同時に起こりえる
私はそれを願うことができる

慈悲の瞑想ってこういうことだったんだ!


平穏無事に幸せを感じられる


そして、その日のセッションでは、
さらにあと2つも、自分のこれからの生き方につながる大きな気づきがありました。

1つ目は、幸せについて学んだときのことです。

幸せには2種類あるそうです
①何かHappyなことが起きた時の幸せ
②平穏無事の幸せ

①の幸せには簡単に気づくことができるが、
②の幸せに気づくにはトレーニングが必要。

平穏無事の幸せに気づくために、
自分が死ぬ間際のことを考えるような瞑想もあると師匠は仰っていました。



あれ?それ、私、いつもやってるぞ?


私の扁桃体は、いつも過活動です。
どんな時も、最悪の事態を想定しています。

それは意識的な時もあれば、無意識に突然襲ってくることもあります。

自分が死んだら…
もし、子どもが死んでしまったら…
親が死んでしまって、会うのがこれで最後になってしまったら…
というような死にまつわるイメージもあれば、

この階段を踏み外したら…
交通事故に遭ったら…
何か重大な病気が見つかったら…
目が見えなくなったら… 耳が聞こえなくなったら…
というような怪我、事故、病気にまつわるイメージもあります。


時に、あまりにも鮮明な様子が脳内で再生されて、
思わず目をギュッとつぶったり、身震いしてしまうこともあるぐらいです。

これが、日常茶飯事なんです。
私の扁桃体、ほんっと大迷惑だと思ってました。


心理学で得た知識や、マインドフルネスを通して、
これは私の脳のバグで、『扁桃体の過活動』とラベリングして処理することができるようになってからも、
突然に襲いかかってくる最悪のイメージはいつも私を脅かしていました。


でも、私にデフォルトで備わっていた、この大迷惑な脳の機能が、
まさか役に立っていたとは!!

この機能のおかげで、私は、ほぼ毎日、平穏無事に生きていることに感謝していました。

あーよかった。
最悪の事態になっていない。
今、私とっても幸せだ!!

毎日、そう思って生きていました。天然で。

びっくりです。



嫌なことに対しても感謝できる


そして、もう1つの気づきは、感謝について学んだ時のこと。

感謝には3種類あるそうです
 ①良かったことへの感謝
 ②当たり前にあることへの感謝
 ③嫌なことの中にもある感謝

①の感謝は気づきやすい。
②の感謝もトレーニングによって気づけるようになる。

③の嫌なことの中にある感謝に気づくのことは難しいけれど、これもトレーニングによってできるようになるそうです。
出来事のマイナスに気づいたら、プラスに目を向けて、対消滅させる練習をするのだそうです。


でも、これも、私は自然とやっていました。
というのも、うちの母親がそういう考えをする人だったからです。

嫌なことが起きても、その中の良かったことを見つける技術に長けていました。
不幸中の幸いを見つけるプロです。


マイナスと思えることの中にあるプラスに気づく。
私は小さい頃からずっとそうやって生きてきたので、人生ってそういうものだと思っていました。

たぶん私の人生にマイナスに思える出来事もたくさんあったと思うけど、
何ひとつ文句がないのは、そうやって生きてきたからかもしれません。

全ての出来事が今の私を作ってくれている。感謝。



この2つの大きな気づきを師匠に伝えたら、
「だから、幸せな人なんですね。幸せである人なんですよ。」
と師匠がおっしゃいました。


そうなんだ!
そっか、じゃあもう隠さずに、

自分の幸せを認めて生きよう!!

シンプルにそう思いました。

 

いろんなものからスッと解放されて、
目の前にこれからの生きる道がパッと開けたように感じました。

  

これまでとこれから


自分と向き合う長い長い旅をしてきたのですが、
ここへきて私の中の一連の何かが、まとまったような感覚があります。

生きているうちに、いつのまにか身にまとってしまっていた
いろんなものが剥がれ落ちて、
もともと自分の中にあったものがやっと見えてきたようです。

そういう作業をずっとやってきたんだと思います。
師匠に導かれ、安心の空間で見守られながら。



世界ってこうやってできているんだ。
私は幸せであっても大丈夫。
そんな自分であれることに感謝して、
分け隔てることなく、世界中の人々と共に幸せでありたい。


おわりに:実生活で慈悲の心を思い出すということ


最後に、
人生を大きく左右するような大きな気づきがいくつも続いた後、
実生活でちょっとした出来事に遭遇しました。

出来事の詳細は書きませんが、気づいたことだけを書きとめておきます。


みんな自分のフィルターを通して世界を観ている。

その自分フィルターのせいで、人間関係を勝手にこじらせてきたこと、
私の中できっとたくさんあるのだろう。
いや、たぶん、こじらせまくってきた。

物事をフラットに観られないから、本当はそこにはない問題が生じてしまう。
そして苦しむ。
ある意味、自業自得。

でも、そういうときに自分を守る方向に心を閉じずに、
相手に対しても、本来自分の中にある慈悲の心を思い出して、つながっていくことが大事。


瞑想の実践を続けていっても、きっと自分フィルターはなくならない。
だって人間だから。

でも、だからこそ、これは自分フィルターで見ている世界であって、
真実ではないかもしれないという視点を常に忘れることなく、生きていきたい。

フィルターを通して物事をフラットに観られなくなってしまう自分、
自分を守りたくなってしまう自分を責めず、
しょうがないよ人間だもの、と自分に慈悲の心を向け、
そこで閉じずに慈悲の心を広げていきたい。



そして、慈悲の瞑想は、言葉を唱えることが大切なのではなくて、
自分の中にある慈悲の心に気づいて思い出すことが本質。

だから、別に瞑想で慈悲の言葉を唱えてトレーニングしなくてもよいのかもしれない。


私は、慈悲の瞑想をしなくても、世界中の人々が、生きとし生けるものが幸せであるようにいつも願ってる。
たぶん、生まれた時からデフォルトで。

でも、それがこの世界では叶わないのだと勝手に思いこんで、そういう世界にずっと絶望してきたから、
改めてそのことに正面から向き合う慈悲の瞑想で辛くなっていたのだと思う。

でも、もう私は大丈夫。
私も世界中の人々も幸せであることができる世界に気づいたから。

そして、時に怖いと思う人に出会った時、
思わず自分を守ろうとして心が閉じそうになった時にこそ、
慈悲の瞑想をツールとして使って、
自分への慈悲の心を思い出し、それを元に外の世界へと広げていけばいい。

そうやって世界とつながっていけばいい。
私にとって、慈悲の瞑想を、歯磨きレベルで日常に使っていくとはこういうことなのだと思う。


私の中の慈悲の心のストッパーが完全に外れました。

これから、自分の中にある慈悲の心をもっと大切にして生きていこうと思います。
私らしく。



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