宇宙のなかの、この一点に生きる ~地球暦(1)
朋の遠方より来たる有り、また楽しからずや。
志を同じくする友が遠くから訪ねてくれる喜ばしさ、その語らいの楽しみは、孔子の時代から変わらぬもの。
長年の音楽仲間であり敬愛する先輩でもある友人と酌み交わした先日、何とも素敵な手土産をいただく。
「地球暦」。太陽系を1兆分の1の縮尺で表現した時空間の地図。
(詳しくはリンクをどうぞ)
私たちは皆、生まれた時には目に映るものだけが世界だったけれど、知性と想像力によって世界をどこまでも広げることが出来る。
意識するかにかかわらず、私は今、「宇宙のなかの一点」に生きていることを知っている。
そこで天文に深い知見のない私は、いい加減なもので、理由の分からない好不調を「なんかよく分からんけど天体の運行によるものってことにしておこう」と考えて処理することがままある。
ヨガでは新月と満月の日にプラクティスを行わない習わしがあるように、昔の人は天体が身体に及ぼす影響を敏感に感じ取っていたのだろうと思う。月のような最寄りの天体だけでなく、遥か彼方で起こっている事象も、巡り巡ってこの地球上の私に影響しないとは限らない。同じ空間に存在する物体同士なのだから。
ふとした心境の変化や、重要な気付きが、特に思い当たる理由やきっかけなく訪れることがある。
これまでの思考の蓄積や、無意識に見たり聞いたり触れたりしたものの影響は当然として、その発現は、かさねてきた季節や星の巡り、つまりは「暦」のもたらす体感とシンクロして起こると思っている。
私たちは手の届く範囲の世界で自力のみを頼りに生きているわけでなく、もっと大きなダイナミズムの中に存在しているはずだから。
地球暦の上に惑星をプロットしていくと、A1判の紙の上に宇宙のイメージが広がっていく。緑色のピンの上に、私。
たゆまず寡黙に、しかし力強く厳粛に。
何層もの巨大な円環が、それぞれの周期でひたすら廻り続ける。必然的に、完璧に。全体として大きなひとつの静止であるかのような、壮大な運行。
その巨大な時計の一部として、私も廻る。今どこにいるのか。他の球体たちと、どんな位置関係なのか。何となくイメージ出来ることで、不思議な安心感が胸に満ちてくる。
伸縮する生き物の時間と、完全で揺るぎない天体の時間が交差するところに、人生はあるのか。
そこに目を凝らせば、永遠が垣間見える瞬間があるのか。
素晴らしい音楽作品などに、天体の運行のような完全さを感じることがある。芸術家は、それを見たのだろうか。
…などと、思考を拡散させつつ。
天体の配置と自分のご機嫌具合に、相関のありやなしや。「心身の健康と幸福」を現在の探求テーマとする私としては、そんな観察で地球暦を楽しめそうです。
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